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マカノベル01-0290-edak

2009年08月30日 edak | | コメント(0)

一見無邪気に見える男性陣、実はそんなセクシーなアン子の姿に対して「ギャハハハハー!」とはしゃいでは「チラッ」、「ギャハハハハー!」とはしゃいでは「チラッ」、と幾度となく嫌らしい目線でチラ見しており、アン子としてはそんな男性陣の熱すぎる視線に既に気づいており、今回に限らずエンジェル隊に入隊してからずっとのことで、温厚な性格のアン子も流石に嫌気がさしていた。

マカノベル01-0289-土蜘蛛

2009年08月30日 CMP2000 | | コメント(0)

アン子の右胸にはホクロが、左胸にはご飯粒が一つ残っており、その黒と白の間の深い谷間にはオアシスの水が滴っている。

黒人音楽君 完全アップ完了

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

選挙で大きな山が動きそうなこの日、黒人音楽君も最後までアップし終わりました。

http://cmp2000.jp/man/kokuon/

参考文献

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

● 大陸国家の夢 / 安武 秀岳 / 講談社
● フロンティアと摩天楼 / 野村 達朗 / 講談社
● パクス・アメリカーナの光と闇 / 上杉 忍 / 講談社
● アメリカ南部 大国の内なる異郷 / ジェームス・M・ドーダマン / 講談社
● キング牧師とマルコムX / 上坂 昇 / 講談社
● 新書アフリカ史 / 宮本 正興 ・ 松田 素ニ / 講談社
● ブラック・ムービー / 井上 一馬
● 無敵のブラック・ミュージシャン BLUES・R&B・SOUL / 音楽の友社
● ロックンロール&ポップス辞典 / かまち 潤 / 音楽の友社
● ジミ・ヘンドリクス全アルバム解説 / ジョン・ロバートソン / シンコー・ミュージック
● スーパー・ロックシーン / 水上 はるこ / シンコー・ミュージック
● もっとビートルズ! / 香月 利一 / 音楽の友社
● 非西欧世界のポピュラー音楽 / ピーター・マニュエハ / ミュージック・マガジン
● ジャズ進化・解体・再生の歴史 / 悠 雅彦 / 音楽之友社
● アメリカの秘密 ハリウッド政治映画を読む / 副島 隆彦 / 主婦の友社
● アレックス・ヘイリー、プレイボーイ・インタビュー / あsぎdg;lkじゃうぇおj / 日央アート出版
● ラップ・ヒップホップ / 音楽之友社
● アメリカ・インディアン / フィリップ・ジャガン / 創元社
● ラテン・アメリカ文明の興亡 / 高橋 均 ・ 綱野 徹哉 / 中央公論社
● 侵略の世界史 / 清水 肇八郎 / 祥伝社

他、世界史 教科書
地図帳
辞書
雑誌(レコード・コレクターズ 94.10 / ミュージック・マガジン)など
フリー・ペーパー
CD、DVD、VHS多数

おわりに/02.筆者と黒人音楽

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 筆者が黒人音楽に始めて出会ったのは中学時代で、洋楽では白人のロックより早く出会った。ジェームスブラウンのファンクがラジオから流れてきて、ひたすら繰り返すリズムと異様な熱気にわけのわからない衝撃をうけ、たちまちとりこになっていった。その後も様々な音楽を聞きあさったが、どうしても黒人音楽が一番で、それ以外のものは物足りなく感じてしまう。

 時代・ジャンル・国籍問わず共通するこの黒人音楽の魅力の謎を解くためにこの論文は書かれた。それによって始めて発見できたことが幾つもあった。アフリカの土壌、逆境に対する抵抗・団結・ソウル。そして支配者の文化との出会いと融合。アメリカの音楽産業の世界的規模の影響力。それら全てが黒人音楽の魅力を解く鍵であった。

 黒人音楽をジャンルや時代にわけず、また音楽のみでなく社会や黒人の思想までを含めて理解し、これを読むことで黒人音楽が今までと違う発見、聴き方に繋がればと思う。

 最後に日本について。日本人は黒人と比べるとアメリカから独立を保ち、文化的強制もなく、文化のアイデンティティーを保てる立場にあるはずなのに自らアメリカニズムに仕い、自分の音楽・文化・価値観を捨て、見失っている。日本人も少しは黒人を見習うべきだと思う(真似をすると言う意味ではない)。

おわりに/01.黒人のなかに残るアフリカ

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 黒人は以上のように様々な状況の変化に対して、それに屈しず、文化の独自性を失わず、しかも独自性を発展させてきた。アメリカ南部やジャマイカの黒人英語には今もアフリカなまりが残り、ハイチなどのカリブの島々には「ヴゥードゥー」など西アフリカと同じ神が今も残っている。またラップに聴ける都市の黒人の若者が使う特有の発音や特有の言葉である「スラング」の中にすらアフリカの「発音」のなごりをみつけることができるのだ。今日黒人音楽が世界に広がって、皆に真似されているのは米国が世界規模の音楽産業を発展させ、多国籍企業として世界にレコードを売り、アメリカ音楽の価値が正しいとメディア、広告、映像も駆使して、宣伝している効果が大きい。

 しかし黒人音楽はアメリカ国内では長い間黒人のみのための音楽だった。アフリカから奴隷として連れてこられた彼らは宗教も文化も楽器も名前さえも奪われても、そこから西洋の楽器であるドラムス、ラッパやギターを借りたにもかかわらず、奏でる音は黒人音楽の特徴を保ち続けたのでメディアにもレコードにも取り上げられなかった。そこからは音楽家の闘いであった。黒人のみを対象にするか、あるいは音楽性を曲げて、白人に迎合するかの苦悩の闘いだったのだ。ジェイムス・ブラウンのファンもPファンク軍団のファンも黒人だけだった。

 ヒップホップは新しさを自分の手で作り出し、黒人らしさを保ったままなのに白人にも受けた初めての音楽だ。今米国音楽のランキングは常に3/4くらいは黒人音楽が占めている。これはほんの10年の出来事なのだ。

 またカリブ・アフリカなど他地域の黒人音楽も音楽産業の中心米国と関わらないのに世界に広がったのは黒人音楽が今日受け入れられたのはたまたま音楽産業の中心アメリカにあるからだけではないことを証明している。アメリカ黒人音楽も、カリブ黒人音楽もアフリカ黒人音楽も全ては自分たちを支配したそれぞれの白人の音楽と融合し、その音楽性を特徴としながらも、中核部にアフリカで育んだリズムとソウルを持っているのである。

3.黒人音楽の世界制覇/07.新しい音楽、ニュースクール

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 88~89年頃「ネイティブ・タン」と呼ばれるN.Y.のアーティスト集団(ジャングル・ブラザーズ、デラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエストなど)が次々と世に出る。彼らはオールド・スクール回帰を訴え、ヒップホップをもっと力の抜けた「音楽」として楽しむ集団で、それまでの確立された政治的・過激なミドルスクールのラップの形を自由に壊し、発展させた音楽は「ニュー・スクール」と呼ばれた。彼らはミドルスクールの金のアクセサリーを身体中にまとい、マッチョなイメージだったスタイルに対し、アフリカの木のアクセサリーを身にまといピースフルで自然態なスタイルで、黒人以外の人々にヒップホップを広めるのに大きな役割を果たした。ヒップホップは閉鎖的で怖いと言う偏見がとけ、明るく、オープンでアーティスティックなものと世界に認知され、黒人以外の世界の人種に広がった。

 そして今でもヒップホップは魅力を失うどころかその出来あがったイメージをまた変えようとしている。DJから始まったヒップホップ音楽は「サンプラー」という、あらゆる音を音楽にできる新楽器の出現によって、革新的変化を遂げた。その初期はDJとして流していたなごりで「レア・グルーヴ」と呼ばれるソウル、ファンク、ディスコなどの先人達の創り出したグルーヴを「ネタ」に使用していた。そのまま踊れる曲として使えるのだ。

 やがてヒップホップDJはジャマイカのダヴ・ミュージシャンが多用したように街の音や銃の音など、日常の音を曲中の効果として使用したり、クラシック、ジャズなどそのままではダンス・ビートにならない「ネタ」を加工して、グルーヴィーにした。そして曲をそのまま使って加工するのではなく、バラバラの音用いて、無からグルーヴ自らの手で作り出す「トラックメーカー」と呼ばれるミューシャンが登場する。そこで使用される「ネタ」は何でもありで楽器の音ですらない。

 サンプラーとヨーロッパのテクノが結びついた、DJシャドウなどのラップのないインストゥルメンタル音楽「アブストラクト・ヒップホップ」の登場はヒップホップの解釈の拡大であった。今までヒップホップを聞かなかった人々に目をむけさせ、ヒップホップは音楽性だけで充分勝負できることを証明し、ヒップホップの未来の可能性に果てはないことを示した。ディ・アンジェロはゴスペル、ソウル以来の歌やメロディー「ニュー・クラシック・ソウル」を取り戻した。ティンバランドは今まで誰も聴いたことのなかったグルーヴィーで革新的なビートを追求し続けて、その新鮮な冒険性とポップなメロディーの融合と言う新しいスタイルによって世界的なヒットを飛ばしている。

 これから(※)も黒人音楽家は様々な音楽を吸収しつつ、黒人音楽をさらに進化させ、「黒人らしさ」を表現し続けるに違いない。この世に黒人がいる限り、黒人音楽はなくならないのだ。

※執筆時の状況をざっと触れたが、あれから10年、R&B、ヒップホップというジャンルの大きさ、勢いはそのままに、それはもはや「黒人」音楽とはいえないくらい世界共通の文化になっている感もある...。

3.黒人音楽の世界制覇/06.オーバーグラウンドへ

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 ヒップホップは音の現場の「生々しさ」を持ち続けた音楽だ。それは一つ前の時代まで現場を支えていたバンド音楽に勝るものだった。テクノロジーの向上は音楽に「小人数化」の歴史を歩ませた。エレキ化はオーケストラ並みの大きさの音量を3,4人バンドでの演奏で成り立たせ、シンセサイザー(打ち込み楽器)によるテクノロジーミュージックは一人で音を打ち込み、重ね、機械で同時に鳴らすことでついに音楽製作を一人で事足りるようにした。黒人は「小人数化」という音楽史の流れに沿いながらも、誰も楽器だと思わなかったレコード再生器(ターンテーブル)を楽器のように扱うことで一人の音楽製作の域に達したのだ。そして一人でテクノロジーを用いて作るのにナマ演奏の「生々しさ」も失わないその音楽は、今一番進んだ形態である「テクノ」ミュージシャンにも影響を与える。形態はバンドと違えどそれは音楽の「生々しさ」を表現する目的で作られているのだ。白人のテクノが過去との断絶によって進化したのに対し、ヒップホップは過去の継承によって進化を遂げたのである。

 90年代以降、若者の中にクラブカルチャーが芽生える。DJが曲を流すクラブという空間が人々に新しい音の現場として根付いた。これはヒップホップなくしてありえなかったことだ。ヒップホップはストリートから最先端の文化を作ったのだ。

 白人は相手が黒人であるというだけで差別した。それに対し、黒人は相手が黒人であるというだけで「ブラザー」と呼び合った。これは団結と自己防衛のためだ。これはヒップホップカルチャーでも受け継がれ、黒人は自分達にとってかっこいい(=ヒップ)な姿をして、自分達しか通じないスラングを使い、強い仲間意識を持った。この伝統がヒップホップの時代となり、マスメディアや映像と音楽を通して広まり、アメリカ白人はおろか、世界中の若者がその真似をするに至った。

3.黒人音楽の世界制覇/05.社会現象から思想の核へ

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 ヒップホップの第一世代であるアメリカ・バンバータは「ヒップホップは自分の生き方、思想の根底であり、その自己表現である音楽、ダンス、ペイント、パーティー、その全てがヒップホップだ」と語る。スタイルを真似るだけではヒップホップとは言えない。ズールー・ネイションと言うアーティスト集団を率いるバンバータは、かつてアフリカで最後まで白人と闘った南アフリカのズールー族の伝説的英雄、バンバータの意志を継ぐヒップホップの思想的なリーダーだ。

 ヒップホップのラップのメッセージはスラムの現状であったり、政治的であったり、ネイション・オブ・イスラム思想、キリスト教、アフリカ回帰思想、自己主張であったりと、その思想、宗教・信仰は様々である。それらを超越して彼らは黒人意識、ヒップホップというスタイルで結ばれているのだ。

 黒人の生活は現在でも惨状極まるものである。黒人はアメリカの人口の12パーセントでしかないのに死刑囚の45パーセントが黒人でそのほとんどが男性である。刑務所にいたり、執行猶予中だと言われる黒人の数は100万人を超え、強盗で逮捕される人の61パーセントが黒人という。そして黒人男性15~24歳の若者の死因の最大は同じ黒人青年によるもので、黒人によって殺される黒人の年間総数はベトナム戦争で戦死した黒人兵士の数と等しいという。スラムに住む黒人の若者は少女を犯し、子供を産ませることの他に自己の存在証明をすることができず、学力も手に職もない彼らは正業に就けず、成人し、恐喝・強盗・麻薬売人といった「路上の商売」に入り、やがてはギャングの抗争に巻き込まれる。かつて都市のギャングはイタリア系などのプアホワイト達だが、今は黒人であり、彼らはギャング同士で常に争い、殺し合っている。こうして犯されて産まれた赤ん坊達の将来も暗い。路上の商売やギャングに身を染める男たちは結婚の対象になり得ず、黒人の赤ん坊の2/3近くが未婚の母から産まれ、黒人世帯主の半数以上が未婚の母親であり、この率は白人の3倍で一世代前の黒人と比べても5倍である。当然その経済力では満足な学力はつけられない。

 パーティーミュージックであったアフリカ・バンバータなどの「オールドスクール」ヒップホップの後、白人ロックをカバーしたり、ロックを取り入れた「ラン・DMC」や白人ラップグループ「ビースティーボーイズ」によってようやく「ヒップホップ」は世に知られるようになる。ここでも黒人は白人に受け入れられることでようやく道を開いている。

 ここにきてようやく、所謂ミドルスクールと呼ばれるパブリック・エナミーやブギーダウン・プロダクションなどの政治的・過激なメッセージをラップするミュージシャンが現れた。彼らは黒人スラムの現状を世界に伝え、訴えかけ、黒人若者達のカリスマとなる。その後に「過激」なだけの「ギャング系」ラップが数多く登場したが、やがて彼らも「黒人ギャングはギャング同士の抗争をやめろ」と仲間達に訴えかけたりしだした。映画産業に進出し、「ヒップ・ポップ」とののしられる者もいたが、ヒップホップで金を掴み、豪邸に住めるなんてかつては考えられないことだった。

 しかしそうした同じストリート出身の黒人の成功をねたむ黒人によって殺されるラッパーや西海岸と東海岸のラッパーによる「ラップ」の詞の上での悪口合戦(その対立はシーン全体の盛り上げや話題作りを意図とし、ある程度ショーアップ、コントロールされたものだった)を鵜呑みにした狂乱的ファンによる暗殺とそのファンによる報復によるラッパー射殺事件もしばしば産み、きらめくブラックミュージックシーンに今でもしばしば暗い影を投げかけている。

3.黒人音楽の世界制覇/04.DJから音楽家へ

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 DJファンクマスターフラッシュは次第にレコードを受身でかけることに物足りなさを感じ、作曲を行ない始めた。それはプレイヤーを2台置き、2枚のレコードを自由に構成するというものだった。異なるレコードに入った曲をつなげて流すことから始まり、同じレコードを並べ、曲の最も盛り上がるところのみをつなげて繰り返したり、一枚を流している間にもう1枚を前後に擦って、歪んだ音を加えたりした。客はそれまで以上に盛り上がった。こうした実験と鍛錬の繰り返しからDJは次第に音楽家になっていく。

3.黒人音楽の世界制覇/03.ヒップホップカルチャー

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 ヒップホップの特徴はラップ、ブレイクダンス、ペインティングだ。彼らは路上の壁に自由に絵や主張を描くことで、ステージを作り上げ、大きなスピーカーとレコード再生機ターンテーブルでレコードをかけ、感覚のままに自由に踊った。彼らの踊りを白人はブレイクダンスと呼んだ。そしてその状況にあいづちを打ったり、出来事を説明したりするMCがいた。MCのラップ(おしゃべり)はリズムに乗っていた。これが70年代末に行なわれていたパーティーだった。

 ディスコで曲を流す人をディスク・ジョッキー(DJ)という。DJは演奏者本人なしで音楽の生の現場を再現する、いわばショービジネスの量産化だった。それはアメリカで産まれたが、ジャマイカでかなり発達した。ジャマイカでは家庭のレコードプレイヤーの普及率は低い。そこでスピーカーとプレイヤーを積んで街角でヒット曲を流すストリートDJが多くいた。ジャマイカでは本家のミュージシャンよりDJの方が身近で生の現場の音楽を提供してくれる存在だった。DJ達はやがてただ高級なアンプやサウンドシステムをもって街角に曲をかけるだけでは物足りなくなり、曲を加工しだした。音を足したり引いたりある音だけを響かせ、強調したり、曲の上に効果音を加えたりすることで知っている曲が新しく生まれ変わるのだ。すさまじいトリップ空間を路上に作り出したこの「ダブ」(音を加えること)とよばれる音楽は、街角で若者達を魅了した。プロデュ―サー、キング・タビ―やDJマッド・プロフェッサーによって生み出された。これをジャマイカ育ちのクール・ハークは、ニューヨークの公園でやったのだ。

※1当時ロックステディークルー、NYCブレイカーズなどが「ワイルドスタイル」などの映画でダンスを披露し、世界中の若者に衝撃を与えた。
※2薬物中毒で若くして死亡したバスキアが、ポップアートの巨匠アンディー・ウォーホールに見初められ、有名になった。

3.黒人音楽の世界制覇/02.ビジュアル・スター

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 80年代ビジュアル・スターと言われる黒人が産まれた。モータウンの70年代の切り札、ジャクソン5のスーパースター、マイケル・ジャクソン(※)や、孤高の天才アーティスト、プリンスだ。彼らは白人女性をもその美しさで魅了した。彼らの世界とその自己主張は美意識の概念を変えたのである。彼らは黒人差別意識というかなり白人のかなり深層まで根付いた意識を取り去る扉を開いた。黒人は昔から自分たちの姿をより良く見せるセンスに優れていたが、それまで白人は無意識に黒人を恐れていたので拒絶していた。

 彼らの成功は24時間ミュージックビデオを流すケーブルテレビ「MTV」の存在が大きい。MTVの登場は音楽産業の構築をさらに体系化し、視覚的表現・インパクトや容姿ビジュアルからもスターや社会現象を起こすようになったのだ。音楽産業は映像媒体とのメディアミックスによってさらに巨大儲け産業と化した。

※今年、マイケル・ジャクソン死去のニュースには筆者は少なからず衝撃を受けた。この論文執筆時に健在だったJBもすでにこの世にいない(哀)。マイケルの音楽や映像作品もさることながら、彼自身の歌唱力とダンス技術はずば抜けている、彼もまたプリンスと並ぶ天才だと思う。(プリンスは音楽、ビジュアル共に徹底的に確信犯的に独自の世界を作り上げる。プリンス派の筆者は黒人音楽愛好家としては少数派の部類だろうが、キングオブポップという名がふさわしいマイケルの作品の質の高さはやはり素晴らしい。特に80年代)

3.黒人音楽の世界制覇/01.ストリート・ミュージック

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 今までもそうだが、音楽が儲けに走り、質の低いものが量産されるとそこには初期の生々しさがなくなり、人々はその反動でより新しくて、生々しい音楽を求める。つまり飽きてしまうのだ。

 70年代後半は白人にとっても黒人にとっても、生々しさに欠けていた。その反動がまずレコード業界とは離れた現場、ステージから起こる。流通に乗って派手なレコード業界は音楽の全てではない。演奏がじかに見れるステージは音楽の送り手と受け手がわかれる前の「興奮の共有」を思い出させてくれる場所だ。

 白人で言えばそれはパンクだった(しかしパンクはレコードが売れてからは量産され、また飽きられてしまった)。黒人で言えばそれはヒップホップだ。ヒップホップの現場はステージですらない。それはストリートだ。かつてジャズもブルースもドゥワップもストリートで起きた現場の音楽だった。ヒップホップはニューヨークのストリートで70年代末に行なわれたパーティーで、それはしばらくの間、ニューヨークでしか知られてなかった。ヒップホップが知られるのは80年代中頃、レコードがようやく出せる様になってからだ。

2.公民権運動と黒人音楽/13.キューバ・アフリカの黒人音楽

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 同じ様に、カリブの小さな島国でありながら、世界的影響力をもつ島国にキューバがある。元スペイン領で、太鼓の使用を禁止されなかったキューバには、古くからパーカッションのきいたリズミカルな音楽「マンボ」があり、戦前すでにアメリカ(=世界)に広まっていた。

 50・60年代に「キューバ革命」によって社会主義国家となってから今まで、キューバのミュージシャンはかつてより生活も貧しく、多くの才能ある音楽家がレコードを創る金がない状況が続いている(革命前は親アメリカ政権で、合衆国との交流が深く、ミュージシャンの往来もさかんだったため、合衆国に亡命したミュージシャンも多い)。しかし実際のキューバ人にとっては今でも「音楽」や「踊り」・「歌」は生活に無くてはならないものであり、音楽家の活動の場の中心は録音よりも演奏会なのだ。人々はその生演奏で踊り、生歌を聴き、酔いしれる。そこにはまだ産業化される前の共同体のためのナマ芸術の姿が残っている。また、国土の条件と政策から、産業を立てることが難しいキューバにとって「観光事業」は大きな収入源であり、その観光客を呼ぶ効果な高い「音楽」をキューバ政府はとても重要視し、援助に力を入れている。

 ドミニカのメレンゲなど、他にもカリブには様々な黒人音楽があり、それぞれが、その奴隷としての歴史にもとづくさまざまな楽器(ドラム缶など)、宗主国のメロディーやアフリカよりつたわるブードゥーなどの土着宗教などの融合によって、魅力的でリズミカルな音楽や踊りなどが形成され、産業化する前の音楽の姿をより保っている。

 また革命後、合衆国に亡命したキューバ人は仕事をもとめN・Yなどの都市部にすみ、スラムで同じカリブのプエルト・リコ人などとカリブ・コミュニティーを形成し、70年代にはアメリカ産のカリブ音楽「サルサ」をつくりだした。サルサ・ミュージシャンは、キューバのマンボ・ミュージシャンや、ラテンの影響を受け「キューバップ」「ブーガルー」などと呼ばれる音楽を創ったジャズ・ミュージシャンと盛んに交流し、影響しあい、広まっていった。

 ベテランのサンタナや、若者で政治的なレイジ・アゲインスト・マシーンなどのアメリカ西部のメキシコ系アメリカ人も含め、近年、世界的にラテンブームが巻き起こっている。それは、アメリカ国内のメキシコ系・カリブ系ラテン人の人口が近年黒人に近づく第3の勢力にふえているところが大きい。しかし、彼らの文化は、スペインやポルトガルなどのラテン・ヨーロッパ文化だけではなく、一緒に連れて来られた奴隷のアフリカ文化(ブードゥー教・太鼓)との混血なくして考えることはできない。これはブラジルのサンバ(※)も然りである。

 第3世界の音楽としては、アフリカの音楽も、70年代以降には、アフリカ以外の地域にひろまりだす。アフリカは広く、各植民地の宗主国文化と様々に融合し、またレコードの出現した20世紀からは、アメリカ大陸やカリブの音楽の影響もうけ各地で様々な文化を形成した。アフリカ近代音楽もアメリカ同様、軍のブラスバンドに入ったりその楽器を使ったりして西洋音楽にであい、娯楽音楽家が産まれた

 そして70年代、ナイジェリアに現われたフェラ・クティーは、JBに強い衝撃を受け、「アフロ・ビート」と呼ばれるアフリカ独自のファンクを作り、政治的スローガンをナイジェリア語でうったえた。彼の活動は政府当局には迫害され、何度も投獄されたり暗殺されかけたり、国外追放されたりした。その影響力はアフリカ全土に及んだ。彼もボブ・マーリーやJBのように民衆のカリスマだった。この時代音楽は人々の生活の中で娯楽以上の意味を持っていた。

 音楽産業の中心でないはずのこれら第3世界の音楽が世界中に広まるのは、やはり黒人の創り出す音楽には、人々の心に伝わる「魅力」があるからだと言えるだろう。

※この時点では、筆者はブラジルの音楽について「サンバ」までしか触れていない。50年代にサンバから産まれたボサノバはパイオニアであるアントニオ・カルロス・ジョビンが黒人でなかったため、純粋な黒人音楽ではなく、ブラジル独自の混血ミクスチャー音楽であると筆者は捉えていた。しかし、ボサノバがサンバよりもリズムが複雑化したのはジャズの影響があるし、逆にボサノバがアメリカのジャズやファンクに影響を与えた部分もある。16ビート単位で作られる複雑なリズムのギターが黒人音楽へ与えた影響は無視できない。

2.公民権運動と黒人音楽/12.ボブ・マーリーの登場

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 実はこの遅いグルーヴの最初の発明者はPファンクではない。それは海を越えたカリブ海の島国ジャマイカで産まれた。ジャマイカは元イギリス領で、真上にあるニューオリンズ港よりアメリカ文化、下からはブラジル文化、そして本国イギリスからはヨーロッパ文化が入り、それぞれが混じり、独特の文化が産まれた。

 まず戦後「スカ」と言う「裏拍」つまり2拍と4拍のアクセントを強調する音楽が流行した。このリズムは独特で革新的なものだったが、メロディ―はアメリカの「ソウル」だった。しかしジャマイカの黒人は、アメリカの黒人よりさらに強くアフリカ語の「なまり」が残っており、アフリカ単語も残っている。この独特のイントネーション(なまり)をもつ英語を「バトゥワ語」と言う。スカはメロディ―の聞きやすさとビートやなまりの新鮮さでアメリカ、そして世界に広まった。

 60年代までは「スカ」の時代が続くが、その中でボブ・マーリーは70年代に入ると、スカを進化させた。曲のテンポを落としはじめ、アクセントの密度(間隔)を2倍に離し、それでもさらにグルーヴィーで、かつ複雑でディープな「レゲエ」と呼ばれる新しい音楽を創った。このレゲエがスピードに関係なくグルーヴは創り出すことができる事をPファンクにきづかせたと思われる。始めこの音楽はなかなかジャマイカ以外の地域には広まらず、一部のミュージシャン位にしか知られていなかった。

 アフリカの独立が相次ぐ60・70年代、アフリカの中で唯一植民地にされず王国の血を絶やさなかったエチオピア王国皇帝を、全アフリカ新独立国とアメリカ大陸・カリブ海の奴隷の子孫達にとってシャー(=神、盟主・英雄)とするジャマイカ人、マーカス・カーヴェイ(1887-1940)の唱えた「ラスタファリアリズム」(エチオピア皇帝の名よりとられた)を信仰するボブは、アフリカ回帰思想やマリファナ神聖視を広め、ジャマイカや世界の人々に多大なる影響を与えたカリスマである。

 皮肉にも黒人のブルースを世界に広めたイギリスの白人エリック・クラプトンがボブ・マーリーの曲をカバーすることによってレゲエはようやく世界に知られることとなった。黒人の独力ではその魅力を広められず、白人のカバーによって始めて市民権をえるという現象はジャズ(ODJB)・ロック(エルビス)・ソウル(ビートルズ)の頃から続くレコード業界の伝統だ。

 だがこのレゲエとの出会いなくしてファンクの革新はありえなかったし、後述するレゲエが発展して産まれた音楽「ダブ」なくして今のヒップホップ(そしてクラブカルチャー自体)のスタイル確立もありえなかった。この小さな島国の影響力は今でも強く、アメリカ人でも「バトゥワ語」でラップする音楽家は少なくない。

※スカは70年代末期に、イギリスのニューウェーブ(ポストパンク)ムーブメントの中の一つ「ネオスカ」としてリバイバルし、ダンスミュージックとしての魅力が見直された。その背景として、多くのジャマイカ人が移民し、労働者階級の白人と交流していたことも忘れてはならない。

2.公民権運動と黒人音楽/11.テンポダウンするファンク

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 JBのファンク・ビートはシャープでスピーデイ―な熱気にあふれるビートであり、初期ファンクバンドはジャズ上がりのミュージシャンが多かった事もあって、皆JBを手本としていた。

 そんな中、独自のビートを創り出したのがP-ファンクだった。初期こそはJBバンド出身のべーシスト、ブーツイー・コリンズの加入もありJB的ビートだった彼らは、次第にそのテンポをゆったりとした物に落として行った。そのテンポはかつて「ソウル」の時代ならば「バラード」に属す落ち着いた感傷的な物にしかならないテンポだったが、Pファンクは、そのテンポでも「エネルギー」と「グル―ヴ」を失うことなく、むしろJBよりもディ―プで息の長い、より客をトリップさせる効果を持ったものだった。これはロックやブギの様な「早い」音楽で客をトリップさせることよりも難しいのだ。

 この「遅いグルーヴ」の発明は、70年代後半にはファンクの新しいスタイルとしてすっかり定着し、JBのハードなファンクはむしろ時代遅れの懐かしいビートとなった。そしてこの「遅いグルーヴ」は、現在でもヒップホップ・R&B等のブラックミュージックのテンポに受け継がれているのだ。

2.公民権運動と黒人音楽/10.現実逃避の時代

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 かわって登場したのはフュージョン(※)とディスコだった。フュージョンは先のなくなったジャズがエレキ化と他ジャンルとの融合(フュージョン)によって最後に得た成功だったが、これもレコード会社の量産体制に乗せられ、質の低い曲が増え消えた。その後ジャズはブルースと同じく、クラシックとして愛好家だけの音楽となった。

 ディスコは最初から質が低かった。これはファンクのエッセンスをよりわかりやすく単純化させ、上にラブソングを載せた、最初から白人受けを狙ってきらびやかに飾られた娯楽ダンス音楽だった。だが当時は白人黒人問わず、受け入れた。先が見えない不安な時代になると、人は日常を忘れさせてくれるダンス音楽を求める。70年代後半は空虚の時代だった。若者には公民権もベトナムもなく、スローガンも思想もいらなかったのだ。レコード会社の合理主義の中にでも、時代の傾向は見ることはできるのだ。そしてディスコもブラックムービーもやがては白人にのっとられる。白人ジョン・トラボルタ主演、ビージーズ(元フォーク・グループ)主題歌のディスコ映画「サタデーナイトフィーバー」はその象徴である。

 この時代最も人気人気の高かった2大ファンク・グループが「アース・ウインド&ファイヤ」と「Pファンク軍団」である。共に「スライ&ファミリーストーン」の強い影響を受けたグループだ(スライは70年代後半から麻薬におぼれ、第一線より遠ざかる)。元フリージャズドラマーであるモーリス・ホワイト率いる「E.W&F」はひたすらポップでダンサンブルなディスコティック路線で白人に受けていたのに対し、モータウン出身で売れなかったジョージ・クリントン率いる「Pファンク軍団」はジェイムス・ブラウンのバンドメンバーなどを吸収し、ひたすらファンキーで重厚な音楽と宗教儀礼じみたコンサート(フリージャズ系)、黒人を主人公にした架空のSF物語を展開、ジミヘンを思わせる重いギターなど、黒い要素の凝縮された黒人音楽世界を創ったが、黒人にのみ受け、白人には全く受けなかった。

※ジャズのエレキ化を行ったのはまたしてもマイルス・デイビス。彼が起用した若手ピアニストはエレクトリックピアノやオルガン、シンセサイザーに果敢に挑み、その技量に音色の変化も加えていった。彼の元から巣立ったキーボディスト達は70年代、さらなるエレキ化や他ジャンルとの融合を図る。チック・コリア率いるリターン・トゥ・フォエバー、ジョー・ザビヌル率いるウエザー・リポート、ハービー・ハンコック 率いるヘッド・ハンターズなどだ。彼らの挑戦は70年代のジャズを牽引し、さらなる若手を発掘し(エレキベースの名手で白人のジャコ・パストリアスなどもフュージョンムーブメントならではのミュージシャンであった)、ジャズファン以外のリスナー層も開拓するが、その後はインストファンク、インストディスコバンドが量産された。フュージョンの停滞は、ジャズのアナログ楽器への回帰に繋がった。

2.公民権運動と黒人音楽/09.ニューソウルとブラック・ムービー

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 60年代の盛り上がりは70年境に変質した。白人の音楽の祭典ウッドストックに黒人代表として乗り込み、白人ヒッピー達を魅了した西海岸のファンクバンド、スライ&ファミリーストーンは喝采の中、黒人と白人の融合を確信した。このグループは黒人も白人も男も女も混じったそれまでにない、自由なスタイルと音楽性を持っていた。が、直後別のフェスティバルで黒人少年が白人暴走族に殺される事件が起きた。これを境に社会的ファンクは影を潜めた。以後は黒人リズム感を活かした過激だが社会的でない、ダンス音楽としてのファンクが残った。
 かわって社会的なメッセージを出す役目になったのはマービンゲイ、スティービーワンダーらノーザンソウル歌手で、モータウン社長の意向に反して、作詞・作曲・プロデュースなどを全て自分で製作するミュージシャンが現われ、社会的レコードを作った。「ニューソウル」と呼ばれるこれらの社会派ソウルは他に、シカゴソウルのカーティス・メイフィールド、ダニー・ハサウェイが中心だった。特にダニーは「ニューソウル」の中、登場したスターだ。

 ニューソウルは同時期盛り上がった映画界のムーブメント「ブラックスプロイテーションムービー」とも呼応しあい、そのサントラを担い結びついた。ブラックとエクスプロイテーション(市場開拓)の造語である。それまでハリウッド映画界に黒人は登場できなかったが、ブラックスプロイテーションは黒人監督による黒人俳優をヒーローにした自主製作映画である。監督ゴードン・パークス、バン・ピーブルズや俳優リチャード・ラウンドツリー、女優パム・グリアーなどが有名だ。スクリーンの中で白人の悪党を痛快に倒す黒人役者は活力に溢れていた。クオリティーよりも、黒人映画の存在自体に意味があったのだ。しかし、黒人映画登場の前には、白人に従順な役を演じることでしか食うことができなかった黒人役者たちの長い歴史と努力があったことを忘れてはならない。

 しかし時代は暗かった。「公民権法」が成立しても差別もスラム街も何も変わらなかったのだ。黒人に職はなく、麻薬があふれ、暴動と迫害は頻発した。ニューソウルはこれらの時代を映す鏡として暗い社会の歌を歌ったが、社会が一向に良くならないとわかったとき、黒人リスナーの方が彼らを離れた。ダニー・ハサウェイは80年に自殺。他の者も社会派ソングを歌わなくなった。ブラックスプロイテーションムーブメントも低レベルな作品の量産によって急速にその力を失っていった。

2.公民権運動と黒人音楽/08.公民権とファンク

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 ジミは黒人音楽の扉を一気に開いた。だがそれに続くブルース音楽は産まれなかったので、その後ブルースは音楽の第一線を離れ、愛好家のみの聴く、クラシックとなってしまった。ジミの後に続いたのはむしろソウルだった。

 サザンソウルの世界にいたジェイムス・ブラウンはすでにシンガーとして不動の地位にいた。彼のドラマチックで激しい叫びと歌は歌手として定評があった。彼はその場所に安定するより、新しい道に進んだ。

 こうして産まれたのが「ファンク」だ。ファンクの音楽的特徴はグルーヴィー(=ポリリズム(※))なフレーズを繰り返し、歌の掛け合いの繰り返しであり、アフリカの音楽を思い起こさせるものだ。リズムの革新はこれまたジャズ・ミュージシャンの起用で起きた。当時音楽のリズムを革新しようとするとき、常にジャズが関わった。ダンス(=リズム)への黒人の最初の表現がジャズでソングへのそれはブルースだった。ソング音楽であるブルースから派生したソウルにダンスの部分を合わせるにはジャズを入れるのが早道だった。

 ジェイムスの音楽は次第に社会色を強めていった。当時公民権運動の盛り上がりはすさまじかった。ジェイムスは掛け合いで「立ち上がれ」とか「諦めるな」とかのスローガンを繰り返し、全ての客が黒人である会場で合唱され、興奮はピークに達した。スローガンの中でも彼の考えが最も現われたのが「俺は黒人でそれが誇りだ」というものだった。これは「ブラック・イズ・ビューティフル」とか「ブラックパワー」とか黒人運動家が唱えたスローガンの根本部分だ。まず誇りに思え、というのはそれまで誇りに思えない虐げられた状況にあったということだ。

 ここに来て、音楽家の立場が変わった。それまでの黒人音楽家は社会に合わしたり、社会に認められようと努力して来たが、ファンクは社会を造ったのだ。それはベテランだったジェイムスにしか開けぬ扉だった。JBはアメリカの(さらにアフリカまで)黒人にとって特別な存在・カリスマとなり、思想的に大きな影響力をもった。レコード会社は危険な試みを避ける。失敗しれば大損だからだ。それを思い通りに行なうには地位が必要なのだ。だが一度それは世に受けて儲かるとわかれば、レコード会社はそれがどんな音楽でも量産する。徹底的利益第一主義なのだ。それが売れるかどうかはギャンブルなので仕方がない。

 同時代ボブ・ディランのように社会的なことを歌う者が現われ、ベトナム反戦歌を歌った。同じようにJBは公民権運動とつながり歌った。60年代はモダンジャズ音楽家の努力が実り、ミュージシャンが芸人→芸術家になった時代だった。その扉を開けたのも新人ではなく、地位のあったビートルズだった。

※同じ60年代にクラシック界でアメリカのスティーブ・ライヒが確立したミニマルミュージックは、ファンクと同じく一定の各楽器がフレーズを繰り返してポリリズムを作り出す形式であった。70年代テクノロジー革新によってダンスミュージックにヒップホップ(黒人)とテクノ(白人)というの2大潮流が生まれたが、同じ形式を人力演奏で行っていたファンクはヒップホップの父、ミニマルミュージックはテクノの父と言えた。

2.公民権運動と黒人音楽/07.ブルースの革新

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 60年代後半、革新的なブルースギタリストが登場した。ジミ・ヘンドリクスだ。彼は一日中ギターを弾き、ギターを持たぬときに不安だったという。彼はそれまでの黒人音楽家には考えられぬことをいくつもやった男だ。デビューからして外国(イギリス)で白人とトリオを組み、デビューした。ここで国も人種も超えてしまった。そして「ロック」ミュージシャン(ビートルズがイギリスからアメリカに進出して成功。R&Rやノーザンソウルのカバーから始まった彼らの音楽は「ロック」と言われ、「ロール」が抜けることでロックンロールは白人専門の音楽となった)として、白人のロックファンを対象に音楽を作った。

 イギリスでは当時ものすごいブルースブームでイギリス人は皆ブルースに憧れていた。そこに登場した本場の黒人に皆参ってしまった。しかも彼のサウンドはリズムもメロディーも全て革新的で実験性に富んでいた。リズムの革新にはメンバーのドラマーがジャズドラマーだった事が大きいが、ジミのギターもかなりリズミカルでそれまでのブルースにはないものだった。それでもギターにはブルース感覚が常に宿り、歌の掛け合いは陶酔感を産んだ。そこには黒人の音楽要素が全て詰まっていた。そしてそれだけに終わらない進化した音があった。

 この時代アメリカは、終わる気配も勝つ気配もないまま続くベトナム戦争の厭戦気分・徴兵拒否・反戦平和の気分から、それまでの権威あるアメリカの神話に当てはまらない新しい価値観を持つ若者たちによって「平和」の名の下、カリフォルニアをメッカに「ドラッグカルチャー」「サイケデリック・カルチャー」が花開き、「ヒッピー」と呼ばれる長髪で麻薬にふける若い男女のはみ出し者達が、各地からアメリカ西海岸に集まってきた。ジミの音楽はこのドラッグ・カルチャーの白人の若者とモロに相性がよかった。ジミ自身もドラッグ中毒者で、ギターの音は幻覚状態を再現していた。当時開発されたギターの音を歪めるワウワウペダル、ファズなどのエフェクターを誰よりも使いこなし、トリップ感を再現したのはジミだった。また、ジミはギターで町の喧騒や、鉄砲、声などなんでも表現できた。

 要するに彼の音楽は時代に全て合っていたのだ。それに加え、黒人であるという特徴も武器になった。彼が始めて、その後10年以上に渡って黒人の代表的ヘアーとなった「アフロヘアー」はアフリカの森を思い出させる「アフリカ回帰思想」の現われだった。その思想は西アフリカ原産のカリブの呪術・宗教、「ブードゥー」をキーワードにしたその詞の世界にも現われていた。しかしジミのドロドロしたエネルギーに満ちた音楽は時代を超える迫力と魅力に溢れている。

 だがジミもコルトレーンも70年までに死に、ジャズもブルースも後継者を失ってしまった。

2.公民権運動と黒人音楽/06.キング牧師とサザンソウル

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 公民権運動の最も激しかった60年代、二人の黒人指導者、南部のキング牧師と北部のマルコムXはそれぞれの拠点で一見全く反対の思想を唱えていた。

 キング牧師はキリスト教の「他者への博愛」「平等思想」を基本に、活動としてはガンジーの「無抵抗・不服従」主義を唱えた。「無抵抗」は暴力の否定、白人と同じ手段を使うことへの否定だ。「不服従」とは、「非道の法律」は「法」であっても、「正義の道徳」を信じ貫くためなら破ることが正しく、それによる「投獄」は社会へ訴える自己主張・宣伝なのだとし、南部の白人専用の店、トイレ、バスの白人席を利用し、投獄されよ、それでも駄目ならバスのボイコットで歩いて会社まで通おう、などの呼びかけを行なっていた。

 一方北部のスラム街に育ち、イライジャ・ムハマド率いる「ネイション・オブ・イスラム(NOI)」という新興宗教の指導的立場に立つマルコムXは、自らはイスラムにのっとった規則正しい生活を送り、内部も整備し、外側には「白人は悪魔」と訴え、キングが「人種統合」を唱えるのはキリスト教によって白人に洗脳されているからで白人とは永久に統合できない。むしろ白人の望むように「人種の徹底分離」とアメリカ国内に「黒人国家」を作るべきであると訴える。そして「黒人が身を守るためには暴力は必要」としたので過激派と目された。

 北部のスラムの黒人はマルコムの思想に強く共鳴し、マルコムの力で「NOI」の規模は何倍にも成長した。NOIはコミューン内で生産から産業まで全て自給自足する組織で現在にも大きな力を持つ宗教である。また西海岸にもストークリー・カーマイケル率いる「ブラック・パンサー党」という武装グループが産まれた。

 こうして過激な北部黒人とノーザンソウルの隔たりはどんどん大きくなっていく。ノーザンソウルシンガーは大スターだあり、白人客の前で笑顔を振り撒き喝采と金を浴びるが、一歩ステージを降りれば他の黒人と同じ差別と迫害を受けていた。

 一方南部のサザンソウルシンガーはキング牧師を尊敬し、南部黒人の応援も受けていた。南部のシンガーは白人に少しも媚びず、黒人のソウルを歌い上げていたが、それでもその歌が伝わるのか、やがて白人にも人気を得て、オーティス・レディング、ジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリンなどは白人のロックフェスティバルに呼ばれ、白人客を酔わせた。

 しかし65年、ソウルの代名詞であるオーティス・レディングが飛行機事故で死亡。キング牧師もマルコムXも暗殺され、「人種統合」の空気(雰囲気)は急速に衰えて行き、各都市のゲットーで黒人暴動が起こった。

2.公民権運動と黒人音楽/05.ジャズの解体

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 60年代ジャズはフリージャズとなった。メロディー・ハーモニー・リズム・楽器編成などの全ての型をはずし、「フリー化」する。ジョン・コルトレーンやアルバート・アイラーが示したこの音楽はリズムもメロディーも全てが即興のみで形成された。全ての音がそろうことはなく、常に不安定な空気が漂い、それは世紀末を思わせた。ジャズは前衛化され、その先のすることがなくなってしまった。しかしこれはよく聴けば、おたけびやブーイングなど音楽以前の興奮の共有と仕組みが似ている。これは時代の空気とは合っていた。この頃50年代から始まった公民権運動が激しくなり、それは激しい弾圧にあった。フリージャズのレコードから流れる音は当時の黒人が聴いていたの日常の音と心理状態だった。この時代は同時に「社会派ジャズ」と言われ、ジャケットの写真に強烈なインパクトの人種差別を表すレコードが登場した。これらの試みはジャズがオーバーグラウンドに早くからいて、レコード界に長い歴史を持っていたからできたことだ。

2.公民権運動と黒人音楽/04.ノーザンソウル、サザンソウル

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 60年代は白人のロックンロールに替わって、黒人のソウルが大流行する。これには二つの種類がある。「ノーザンソウル」と「サザンソウル」だ。「ノーザンソウル」はモータウンという北部デトロイトのレコード会社が中心だ。この会社はあらゆる面で革新的だった。まず社長も経営人も黒人だった。そして全てを分業体制で行なった。歌手、プロ演奏者、作詞家、作曲家、プロヂューサーの全てを徹底的に分業・専門化し、会社の専属になった者は皆それぞれの道の才能がかなり優れている者たちだった。

 現在の歌謡曲の手本となるシステムを全て黒人だけの手でやってのけ、ヒット曲を連発した。都会的で娯楽的でおしゃれで清潔なわかりやすい音楽だった。しかも分業制なので、質はかなり高かった。白人にも充分に聴けるポップな歌、これが売れないはずがなかった。

 一方アメリカ南部にはスタックスというレコード会社があり、こちらは「サザンソウル」を作り、ヒットした。南部では黒人が多いので、ノーザンソウルは素晴らしいが、飾り立てられて、上品で物足りないと考える音楽ファンが多かった。彼らの需要に答えたのがサザンソウルだった。サザンソウルはより熱く、生々しく、黒人向けの音楽だった。二つのソウルはそれぞれの活動場所での発売やショーでの客が求めるスタイルに合わして成功したと言える。現にノーザンソウルは南部ではそれほど聴かれなかったし、サザンソウルも北部ではそれほど聴かれなかった。

2.公民権運動と黒人音楽/03.ロックンロール消滅

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 アメリカ社会の硬く重たい「岩」を転がしたロックンロール。だがその時代は短かった。これには様々な理由があるが、レコード業界の儲けの構造に利用され、量産されすぎて、飽きられたことが挙げられる。ロックンロールはやがてツイストと名を変えた。ツイストとはダンスのステップの名でここで音楽は娯楽の意味だけとなり、若者は親に反抗するよりも仲間たちとディスコで踊ることを選んだ。しかしこういう音楽は飽きられやすい。どの曲も同じで面白くなくなるのだ。

2.公民権運動と黒人音楽/02.もう一つのムーブメント、ソウル

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 同じ時期、黒人の新しい音楽が産まれた。ソウルミュージックである。ソウルは黒人のためのポピュラーミュージックでリズム&ブルースの発展したものだ。

 これはゴスペル歌手がラブソング=リズム&ブルースを歌うという行為から始まった。今では考えられぬことだが、当時それは大事件だった。人気絶頂のゴスペルシンガー、サム・クックがラブソングを歌うと黒人は皆驚き、喜ぶ者、悲しむ者、怒る者と様々な反応があった。ゴスペルは儀礼を盛り上げるための音楽で聖書の中身を歌うものだった。歌う行為自体が「ダブル・ミーニング」という黒人の抵抗の歴史のシンボルであった。これはいつ白人の奴隷主が聞いてもわからないように、「出エジプト記」などキリスト教の中の悲劇の物語を歌いながら、実はそこに自分達の気持ちを重ねると言うささやかな抵抗の歴史のシンボルだった。その型を破り、世俗化し、ポップソングを歌うことは黒人への裏切りと、権威の崩壊を意味した。しかし結果的にリズム&ブルースはソウルになることで始めてオーバーグラウンド(=白人にも知られる)な存在になったのだ。

2.公民権運動と黒人音楽/01.カウンターカルチャー

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 50年代に産まれたロックンロールは、アメリカ社会を驚かせた。それは人種問題、親子問題、道徳問題の全てに関わった一つの社会現象だった。そして何より音楽の「大衆芸能」から「若者文化」への移行の始まりだった。

 南部白人にカントリーという音楽があった。アイルランドやケルトの民謡が元で、プア・ホワイトと呼ばれる白人カトリック教徒によく聞かれたが、20年アメリカがヨーロッパから独り立ちする上でアメリカ独自の音楽として、白人社会全体に受け入れられた。

 ポピュラー音楽として黒人音楽ではこの頃、リズム&ブルースが急激に伸びてきた。これはドゥワップの上手な歌手を連れてきてブルースバンドにポップで軽快な演奏をさせ、ラブソングを歌うというもので黒人音楽が最もわかりやすく、そして受けるようにした、歌謡曲システムの音楽だった。

 しかしそれでもアメリカの白人の家庭ではこの音楽は下品で野蛮で下世話だ、として受け入れられなかった。この時代ラジオの分離化も進んだ。黒人音楽がラジオからかかるのは下品で許せないということで黒人専用のラジオ局ができていた。結果的にはこれが白人家庭の子供の覚醒につながった。

 子供が親に隠れ、こっそり黒人のラジオを聴くようになったのだ。こうして黒人音楽を聴き、影響を受けた新世代の白人ミュージシャンが現われた。

 チャックベリーという黒人は逆にカントリーを聴いて育ち、この軽やかな音楽が好きだった。彼はカントリー風の曲の上に10代の子供の日常を歌った。ラジオから流れる彼の曲を聴いて人々は、誰も彼を黒人と思わなかった。

 一方プア・ホワイトのエルビス・プレスリーはその逆でブルースやリズム&ブルースばかりを聴いて育ち、黒人街をうろちょろしていた。エルビスの歌声は黒人のそれそのものであった。彼ら二人がTVに登場したとき、白人の子供は衝撃を受けた。その後ロックンロールは若者文化の象徴となり、レコード会社によって「若者対大人」の図式は繰り返し使用される。

1.レコードの登場/08.花開く黒人音楽

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 モダンジャズの革新運動は他のジャンルの黒人音楽家の食い扶持を増やした。この40年代に、ブルースはギター本の弾き語りから、バンドスタイルになり、ギターやハーモニーカ以外のブルースミュージシャンも増えた。40年代、南部のブルースミュージシャンは一斉に北部の都市にやって来て、ストリートで歌った。シカゴのマックスウェル通りはその登竜門だった。T・ボーン・ウォーカー、マディ・ウォーターズ、BBキングなど通りやキャバレーで腕を磨き人気者になった者は、次々とレコードを出した。彼らの音楽はモダンブルースと呼ばれる。

 モダン・ブルースとモダン・ジャズは同じ40年代だが、モダン・ブルースは黒っぽさを排除した都会的でおしゃれな軽快な音楽で、特にジャズ色の濃いものはヴギ・ウギと言われた。ジャズとブルースの存在は正反対になったのだ。元々は暗いのがブルースで明るいのがジャズだった。それはブルースは心の暗い気持ち(=ブルー)を表す目的で作られ、ジャズは辛い生活の中での一時、それを忘れさせる気晴らしの即興演奏、いわば遊びで生まれたからだ。

 ゆえに白人にはジャズの方が最初は受けが良かった。理解しやすかったのだ。だからジャズは白人に受け入れられ、白人に真似もされた。モダンジャズの努力で黒人音楽に権威がついてきたことで、理解されにくかったブルースにも活動や発表の場が与えられたのだ。そしてブルース音楽も白人受けするために娯楽化した。つまりジャズの20年前のスウィングジャズ時代と同じ段階=白人音楽業界に入るための努力、をやり始めたのだ。ブルースがモダンと言われた理由は、モダニズムではなく、エレキギターとの出会いが大きい。楽器のエレキ化が本格的に始まるのは、この40年代からだ。ギターの細かい感情表現を拡張してくれるこのエレキギターとブルースの出会いは、とてつもなく大きい。黒人は楽器を変えても、黒人らしさを失うどころか、むしろそれ以上に使いこなす能力が優れているのだ。

 ブルースがレコード界に登場した頃、ストリートを飾る新たな動きがあった。それはコーラスグループだ。楽器を買う金はないが、小さなときからゴスペルコーラスで歌ってきた経験を持つ彼らは、街角に立ち、アカペラで歌った。リードシンガーが日常や恋愛のことを歌う中、後ろで「ドゥワップ」とコーラスがリズミカルに繰り返される小気味の良い音楽は徐々に人気を集め始める。

1.レコードの登場/07.ジャズ・ミュージシャンの努力

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 最初に音楽産業の中心である北部に行き、黒人音楽を広めたジャズ・ミュージシャンは40年代に入ると次の段階に入った。彼らのレコードはかなり売れるようになっていた。今まで食うこと、認められることが目的だったが、この時代に入ると、次に彼らは給料の値上げしろ、レコードの内容をより自由に作らせてくれと、ストを起こし始めた。第1次ストは42年、2回目は48年に起こった。

 40年代は45年にEP(30分)、48年にLP(45分)と、それまでのSP(6分)と比べられぬほどの音を録れるレコードが登場した。ミュージシャンが、3分という枠に捕らわれず、自由に曲を作れるようになった。

 黒人ミュージシャンは作曲に様々な工夫をやり出した。ハーモニーや曲構成などに、それまで即興が主だった黒人音楽に、西洋モダニズムの概念や新しいアイデアが試された。彼らはモダニズム(近代主義)の影響を受けていて、この行為は単に音楽的向上や楽しみを与えたのではない。ジャズに権威を確立し、白人にも認めさせ、職業音楽家としての立場を向上させるための試みだった。それは成功し、モダン・ジャズ(※)と言われた白人にも芸術音楽として広く聴かれた。

 モダン・ジャズはシリアスな印象の音楽だった。4・5人で奏でられ、曲も長く、スピードは速まり、緊迫感が生まれた。娯楽性を排除し、音楽的な要素にのみこだわったのだ。そこには大人数のバンドも笑顔も歌手すら必要ない。マイルズ・デイビスのレコード・ジャケットに見るように薄暗い照明と気難しい顔の演奏者はモダン・ジャズの目印となった。

※モダンジャズのレコードのアートワークは、当時の最先端であったモダニズム芸術や商業デザインの影響が見られ(ブルーノートレーベルのアートワークが有名)、コード進行などのアレンジも、西洋モダニズム(現代音楽)の実験的な手法が取り入れられたりした。また、クラシック界のアメリカ人ジョージ・ガーシューインは、ジャズを経由しないとありえないようなリズム感の楽曲を作曲し、黒人音楽と白人音楽の融合といえるものであった。
 この時代から、双方のアプローチによる融合はすでに行われていた。

1.レコードの登場/06.北部の黒人音楽

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 第1次大戦の戦勝国の中でも国土を戦火の被害を受けることのなかったアメリカは20年代好景気に沸いた。対外的には次第にリーダーシップをとる側としてアメリカ大陸以外の世界にも干渉する様になる。国内的には大量消費時代が始まり、大量消費のアメリカ方式ができた。大量消費を産むには広告やサービス業などの第3次産業発展が重要に働いていた。音楽産業もこれと関わり、雪だるま式に膨らみ、レコード総売り上げが一億枚を超えた。歌手・音楽家の周りに広告・流通・出版・放送など様々なメディアが関わり、ヒット(儲け)を協力して作り出す、「商売の音楽」が産まれる時代が始まる。この波に乗らなければ、その存在すら人に知られないが、一度それに乗ればアメリカ全土に知られると言うものすごい影響力を持った。音楽業界はようやく軌道にのり、ここに「人種(レイス)レコード」という新しい価値観が産まれた。これは黒人向けに黒人音楽を発売するというもので、それが成り立つほど黒人にもレコードは普及したのだ。これによって、それまで白人音楽家が中心だったレコード界に、黒人のレコードが徐々に増えて行く。これらはスウィング・ジャズと言われるビッグバンドで、黒人特有のリズム感と即興演奏の音楽が多かった。女性シンガー、ビリー・ホリデーや『サッチモ』ことルイ・アームストロングを始めとするジャズ・ミュージシャン達は仕事の口の多いシカゴやニューオリンズで腕を磨いた人達で、食うためには黒人を相手にするより、白人を相手にした方が儲かったため、黒人移住区スラム街に住みながら、より良い生活のために、エンターテインメント性に溢れるショーを行なった。そんなステージをこなした者たちの音楽だったので、レコードでも自然と娯楽性の強いものとなった。

 一方ブルースはより黒人の感覚が強いためジャズに比べれば、白人の認知度は低かった。

1.レコードの登場/05.ゴスペルの誕生

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 ジャズは器楽中心(ダンス)、ブルースは歌(ソング)中心で、いずれも、芸人的ショー音楽として出発したのに対し、ゴスペルは、黒人霊歌(スピリチャル)が形式化されて、器楽演奏が加わった物で、20年代から産まれた。ジャズやブルースよりも厳かな宗教音楽である。ジャズやブルースは世俗の生活の中で生まれ、ショービジネスやレコード産業とつながることでポピュラー音楽になったが、ゴスペルは伝統音楽であり続けた。それは黒人のアイデンティティだった。レコード産業やショービジネスは白人が握っている。黒人音楽家が北部に行き、白人を相手にするのは生活のためだ。

 しかしゴスペルは黒人しか相手にはしないし、黒人が支えくれれば、それでいい。ゴスペル・シンガーは巨大の富みを得る必要はないのだ。それは黒人の作り上げた権威だった。霊歌からゴスペルになることで、黒人はさらに教会を大事にし、さらに盛り上がった。最もビッグなシンガーはニューオリンズ産まれのベッシー・スミスだ。ゴスペルは黒人の多く住む南部の中でしか知られなかった。

1.レコードの登場/04.ブルースの誕生

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 にぎわう港町や都市で産まれたジャズに対し、ブルースは同じ南部でもデルタ地帯の農民の労働歌から産まれた。教会音楽は、教に許しをこう音楽だが、ブルースは個人的なことを歌うので、罪深い音楽とされた。しかし彼らは、自らの手作りのギターで週末や休日にハウスパーティーに出かけ、歌った。小作人がどん底生活から抜け出すための唯一の手段がブルースだった。盲目ウイリー・ジョンソンやロバート・ジョンソン、囚人レッドベリーの歴史的録音に残される彼らのボルトやスプーンを用いた感情的かつ官能的弾き語りにブルーな感覚が記録されている。

 次第に彼らも都市に出て、街角で歌ったり、ナイトクラブに出て金を儲けたりした。「ブルースの父」W・C・ハンディーや「ブルースの母」マー・レイニーなどだ。40年代には、ブルースミュージシャンも金を求めてシカゴやニューヨークなどの大都市のある北部に行くようになった。

1.レコードの登場/03.ジャズの誕生

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 ジャズは港町ニューオリンズで産まれた。きっかけはブラスバンドだ。南北戦争終了後、黒人が軍楽隊の楽器を手に入れ、バンドを結成して収入を得る道を考え出したことから産まれた。彼らは楽器をすぐに使いこなし、楽譜通りに演奏するのでは物足りず、即興演奏を楽しむようになった。これはジャズの重要な要素となる。

 複数で自由に奏でる即興演奏に白人は驚いたが、これはピグミーのポリフォニーから伝わる感覚だ。ここでも黒人は遺伝に記憶を残していた。ニューオリンズは音楽に溢れた街だった。マーチやカーニバルが街中を歩き、音楽好きな民衆は楽隊の後ろについて行った(セカンド・ライン)。

 ジャズが初めてレコードになったのは1917年だが、オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)という名のこのグループは実は白人だった。ジャズは有名になり、白人バンドも黒人バンドも出来たが、当初は、レコード産業を握る白人の手で、白人のバンドのみデビューした。黒人が自分の芸能を外に知らせる手段はまだなかったのだ。黒人ジャズの最初の世代であるコルネット奏者バディー・ボーデンの演奏は録音に残されていない。

 この年、アメリカは第1次世界大戦に入り、ニューオリンズは軍港として栄え、歓楽街ができた。ミュージシャンはナイトクラブで腕をみがいたが、まもなく歓楽街は廃止された。彼らは職を求めて北部のシカゴに行くため、ミシシッピ川を上って行く。シカゴ・ジャズの始まりだ。北部はワスプ(白人プロテスタントのイギリス人、つまり最初の入植者)が支配し、その下にあとから来たプア・ホワイト(アイルランド系・東欧系カトリック信者)がいた。彼らは資産も貯蓄もできず労働者として働いていた。黒人の流入は彼ら労働者にとって職を奪いに来た敵であった。彼らは黒人に対し「差別」からくる感情と言うよりむしろ、生活を脅かすことへの「現実的な憎しみ」からくる迫害を行い、社会に受け入れなかった。そのため、黒人スラム街ができた。黒人はいつまでたってもその後から次々くる白人労働者より良い生活はできなかった。

 ニューオリンズはその後も音楽のメッカとして、ニューオリンズR&B(50年代)やセカンドラインファンク(70年代)など様々なリズムや音楽のミックスされた独特の音楽を産み続けた。

1.レコードの登場/02.レコード出現

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 蓄音機は1900年頃から家庭用に売られた。これは瞬く間に普及した。これにより、今まで現場に演奏家の演奏を聴きに行くことでしか音楽を体験することが出来なかったのが一変した。いつでも聴きたいときに個人の部屋で聴けるようになったのだ。しかし、その頃の黒人の音楽はまだ「現場」の音楽だった。

1.レコードの登場/01.音楽産業の成立

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 音楽産業は音楽の役割を全く変えてしまった。音楽産業が成立してから、音楽は大量に生産・消費され、音楽家は莫大な利益を得た。そして十年前と十年後では、その音楽も音楽家も様変わりしてしまう。それまでの信仰や生活や共同体のための音楽は消えて行った。だが、そうした「波」に黒人は最初無視された。しかし、現在黒人音楽は世界で一番有名な音楽となっている。

 音楽産業は1880年頃産まれた。それは「シート・ミュージック」だ。つまり「楽譜」である。ラグタイムの作品も楽譜で発売された。その後もオルゴールなど、なんとか音楽を再現し、「切り売り」する努力は行なわれた。この時点では音楽の保存や再現は完全には不可能だった。しかし、アメリカの発明家が、ナマ芸術にとって極めて重大な発明をした。エジソンの「蓄音機」、「映写機」の発明だ。

2.奴隷音楽の発生/11.ラグタイムの出現

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 奴隷制が表面上だけでもなくなったことで、南部に黒人職業音楽家が産まれた。彼らの音楽はラグタイムだった。それらはナイトクラブやキャバレーで演奏された。労働者相手の娯楽音楽で、楽器の上手い者が、白人の曲を演奏するところから始まった。南北戦争後のことだ。彼らは、曲のアクセントをシンコペイト(ずらす)ことで、知っている曲をどこか新鮮にした。当初白人はその意味がわからず、黒人だけの持つ魔法だ、と考えた。黒人のリズム感はもちろんアフリカから来ている。何百年も楽器を持つことのなかった彼らがリズム感を残しているのは遺伝としか思えない。ラグタイムの演奏は次第にピアノが中心となり、スコット・ジョップリンなどが19世紀末に人気を博した。

2.奴隷音楽の発生/10.奴隷廃止と差別

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 欧州が世界の中でも一番最初に移住・開発したアメリカ大陸植民地の白人達が合衆国を筆頭に次々独立し、しかも自立した産業力を持つ(植民地と本国との間の新興独立国:第二勢力)事は元の主人、欧州本国にとって脅威でありアメリカ大陸がこれ以上力を増し、欧州を抜かないためにはアフリカ黒人労働力を大陸にいれたくなかった。

 また、最後の秘境として、奥地まで手がだせなかったアフリカ大陸の探検・植民地化にようやく着手した欧州にとって黒人をアメリカ大陸に入れる事は、敵を強くするために自分の労働力を失っている事を意味した。

 こうした理由から、今まで「黒人は人間ではない」で奴隷貿易を行なってきたはずの欧州が今度は「黒人に権利を」と、ヒューマニズムを盾にアメリカ大陸を批判し出した。このニセモノヒューマニズムは奴隷の生活のひどさを伝える事で金持ち欧州大衆の心をつかみ、大きな偽善世論運動に発展し、奴隷貿易廃止をためらうポルトガルなどの国も逆らえずしぶしぶ廃止にのりだす様になる。

 一方、奴隷なしには生活が成り立たない南部と、奴隷と接したこともなく奴隷制も必要も理解しない北部の対立はついに南部アメリカの独立戦争(南北戦争)にまで発展する。北部政府リンカーン大統領は1883年、「奴隷解放宣言」を発した、これは人道的なものではなく戦略的なものだった。南部政府の独立を世界に認めさせたくない北部は、表向き「奴隷制反対」の立場にあった欧州が南部政権の味方を出来ないようにとの作戦だった。かくして1865年、南部政権は敗れ、南北戦争は終わるが、北部にとってはその後は奴隷がいなくなることより南部再興の方が大事だった。一方南部は荒廃し、土地を失ったものは黒人白人問わず小作人(ショアクロッパー)として、奴隷ではないが、半永久的に負債を負った。南部人は小作人の内、黒人のみを下の立場に置くために、様々な差別を行なった。1867年、黒人参政権が産まれたのに「読み書きテスト」を課し、これを妨害した。人種主義者の組織KKKが産まれたのもこのときだ。南部人はかつての立場とプライドを保つため、何とか黒人を下の立場にしようとした。生活のあらゆる場所が「黒人様」「白人様」に分けられるジムクロー法が19世紀末から矢継ぎ早に可決された。白人は黒人に先天的恐怖を持っていた。黒人男が白人女と性的接触を持つのではないか、黒人と白人が本気で戦えば体力的に自分は負けるのではないか、などだ。だから白人は「分離すれども平等」と唱えた。

2.奴隷音楽の発生/09.奴隷のキリスト教化とスピリチャル

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 奴隷は、英語名をつけられ、キリスト教に改宗され、主人の家に隔離された。太鼓も相互連絡に用いる可能性があるので禁止された。19世紀初頭から奴隷貿易は禁止されたので、内部の売り買いはあっても、自然増を目的に、家族を持つことを許された。しかし、父親は目の前で妻や子どもが鞭で打たれても文句は言えなかった。新しい奴隷を産むためだけの家族だったのだ。

 苛烈な労働条件の元で働く奴隷にとっての気晴らしは歌を歌うことと物語りの創作だ。それはアフリカのリズムに新世界の厳しい労役の様を歌詞につけたものだった。

 個人の心情の他に、黒人には大事な場所があった。黒人が唯一集会が許された場所は教会であった。そこでは霊歌(スピリチャル)が産まれた。教会では、黒人のみの独特な世界が展開され、牧師の説教の度に信者は「アーメン」「イエスロード」などと声をかけ、小気味良いやり取りで礼拝が進行し、賛歌の合唱で礼拝は絶頂に達する。参列者全員が身体を動かし、合唱する。感極まり叫び、踊り、失神する者もある。日々のうっぷんを晴らしてくれる、なくてはならない憩いの場だった。そして、教会の歌の形式は、西洋式ハーモニーでなく、アフリカ式のコール&リスポンスだった。

2.奴隷音楽の発生/08.南北戦争までのアメリカ

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 北米大陸には1619年初めて奴隷が入った。この年は第1回植民地議会の年で、白人の自由の始まりと黒人の不自由の始まりだった。しかし最初黒人奴隷者は少なかった。東海岸の気候は北部と南部は違った。北部は欧州に似て寒くて、大農園には不向きだった。南部は温かく大農園が展開された。

 当初は白人に渡航費用を払って契約し、7・8年働かせる年季労働者に働かせていた。黒人はカリブにも需要があるが、白人はどんどん来るので、こちらの方が安かった。その頃は自由黒人も多く、キリスト教に改宗したら許されたり、奴隷の子どもは許されたりした。しかし、白人は期限が切れると去ってしまう。それに北部の産業が発達すると、そこに仕事の口があるので白人は南部に来なくなった。

 植民地政府は1664年黒人法を作った。全ての黒人は肌の色を理由に一生奴隷でなければならぬというものだ。このときから黒人の奴隷制が始まった。18世紀には奴隷はどんどん増え、反乱をさせぬため、黒人法もどんどん厳しくなった。

 本国を追われ新天地を夢見て危険の中大西洋を渡り、一生懸命働いた白人労働者達は、その利益をほとんど税で獲ってしまうイギリス政府についに独立戦争をおこした。1783年の独立後も北部と南部の関係は変わらなかった。農具の開発、土壌改良などに金を使う北部に対して、南部は徹底的に土地と奴隷の維持に努めた。北部は産業地、南部はその供給地となったが、ギャップはだんだん広がって行った。黒人とほとんど接することのない北部の人間には南部の奴隷制を理解せず、反対する者も多かったが、政府は南部と北部の争いを避けるために、様々な苦労をした。「明白な天命」を唱え、インデイアンのを追いながら西へ西へと領土が拡大すると、人々は西のフロンティアに夢を乗り出した。南部の人間も奴隷を連れ、西に農園を拡大した。開拓地が州として認められる度に、そこを奴隷州とするか自由州とするかが議論になった。

 1793年綿繰機が発明され、綿生産に革命的変化が起き、それに伴ない1815年よりアメリカ南部は綿花王国となり、米国輸出業の2/3を占めた。西のテキサスまで伸びた農地の主は、東海岸時代やせた土地を耕していた農民達だった。

 インデイアンやメキシコ人の土地を奪い、やがて領土は太平洋まで達する。欧州に対しては「モンロー教書」を唱え、欧州のアメリカ大陸干渉を拒み、大陸の独立運動を助け、そのリーダーシップを握る一方、西部フロンテイア開拓とアラスカ買収、太平洋進出(ハワイ支配、日本・清への干渉、フィリピン支配)と膨張政策を押し進め、北部の自由競争による工業・産業と南部の綿花生産に支えられて、次第に新興実力国家として力を表してくる。

2.奴隷音楽の発生/07.19世紀までのカリブ

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 カリブ海の大農園は、ブラジル農園を一時支配したオランダによってもたらされた。だから、この島での奴隷の扱いもブラジルと大差はなかった。ここでも奴隷人口は再生産されず、絶えず輸入していた。ブラジルとカリブの奴隷輸入数が多いのはこのためだ。だから本当の意味で音楽文化が産まれたのは、奴隷貿易が禁止され、人間としての喜びが与えられた後からだ。しかし地下では続いていた。

 18世紀欧州では紅茶・コーヒーが大ブームで中流以下にまで広がり、砂糖の需要はものすごく、カリブは中心産地だった。サンドマクはやがて世界最大の砂糖生産地として絶頂に適し、奴隷はどんどん輸入され、白人の10倍以上の数となった。1804年、ハイチは独立した。カリブ初の独立国家であり、初の黒人国家だった。ハイチは早くから独立したので、仏とのつながりが少なく、アフリカ系宗教ヴードゥーの音楽が発達した。その後、英領カリブも仏領カリブも、奴隷制廃止の空気の中、経済は停滞し、その代わりに、独立と黒人音楽形成につながった(ジャマイカのスカ・レゲエ)。

 スペイン領カリブはこれらと違った。スペインはかなりの範囲で、奴隷の土着宗教信仰とその儀礼、それに太鼓を叩くことを許していた。太鼓は他の植民地では、黒人を隔離しても、連絡を取り合い、反乱につながると、取り上げられていたが、スペインはこれらを残した方が黒人の労働に効率的だと考えたのだ。スペイン領はキューバ(後にマンボを産む)、プエルトリコ(サルサを産む)、ドミニカ(ハイチの右半分)。ジャマイカのレゲエ、キューバのマンボ、プエルトリコのサルサは奴隷主の文化と融合した黒人音楽で、後にこのカリブの島の音楽が世界に広まることになる。

2.奴隷音楽の発生/06.19世紀までのブラジル

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 アメリカ合衆国は1783年に独立した。それに続き、19世紀アメリカ大陸は独立の世紀となった。19世紀は奴隷貿易禁止への世紀でもあった。それまで欧州が世界の「中枢」で、それ以外は「周辺」であったが、アメリカ大陸が成長し始め、「半周辺」的存在になり、本国に歯向かって独立し始めると、列強は奴隷がアメリカ大陸に送られるのを実力で阻止し始め、むしろアフリカ本土の植民地化を始めたのだ。

 ブラジル北東部は一番最初に奴隷制の始まったところだ。女は家内労働を行ない、男は熱帯で一年中刈り入れをさせられ、一年に一割は死んだ。男の命は10~20年が限度だった。そして男と女は別々に住まされ、子孫を残すことも許されなかった。子どもは働けるまでに10年の手間と費用がかかるが、新奴隷はその日から働けて、2・3年で元が取れるからだ。ブラジルの奴隷は次々と買い足され、死ぬまで酷使される運命にあった。夢も希望もない、死しか待っていない黒人を働かせるため、主人は鞭で徹底的にどやした。逃亡し、山奥にモガンボ、キロンボと呼ばれる集落を作った者もいたが、見つかると滅ぼされた。このような状況で彼らの生活を癒すのは、歌を歌うことくらいだった。それは故郷の生活を思い出す、悲しい歌だった。太鼓を叩くことも、祭りをやることも許されず、タコ部屋的独身生活の中、その歌は歌われた。

 1670年代には英領カリブの競争に敗れ、砂糖大農園は衰退した。18世紀に入ると、ブラジル南東サンパウロを中心に金が出た。18世紀末には移民によって人口は10倍になった。都市化が始まり、ナポレオン戦争からポルトガル王がブラジルに逃れてきた。ブラジルは活気付いた。国王が本国に帰ると、元の植民地に戻そうとしたので、ブラジルはこの地に残った王族を立て、1820年、ブラジル帝国として独立した。

 奴隷貿易を1808年廃止した英国はブラジルにも廃止を迫り、50年ついに禁止となった。この頃、南東部リオデジャネイロではコーヒー生産が大発展していた。農園主は、奴隷をさびれた北東部から買った。ここの暑さの労働に適応できたのは黒人くらいだったので、需要は増し、60年代には南東部の黒人が北東部を増さった。この地に、北東部で細々と伝えられたアフロ・ブラジル文化は伝えられた。これがリオのカーニバルの起源だ(→サンバを産む)。

2.奴隷音楽の発生/05.各地の奴隷音楽

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 南北アメリカの黒人音楽は大きく三つに分けられる。①北米アメリカ②カリブ諸島③ブラジルである。スペイン領アメリカは人種構造が複雑で、文化的にも混合が多いので、外して考える。ただし、スペイン領アメリカに黒人音楽の要素が入っていないという訳ではない。ここでのアメリカ黒人音楽は、黒人の人種的・文化的アイデンティティを保ち、自分を黒人と認識している人々の音楽を指す。

2.奴隷音楽の発生/04.奴隷音楽の発生

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 黒人は人間ではなく奴隷という商品としてこのアメリカ大陸にやって来た。彼らは世界でも類を見ない経験をして来たのだ。全ての権利は与えられず、全ての財産は与えられず、ただ主人に従うことだけを運命付けられた。

 これは南北アメリカ・南アフリカ・オーストラリアの先住民の悲惨さとは種類の違う悲惨さなのである。

 奴隷は身一つでこの大陸にやって来た。それまでの人生で積み重ねられた経験も記憶にだけ残った。黒人はこのような状態でも生きなければならなかった。生きるために、日々の生活の苦しみ・悲しみを忘れ、保たなければならなかった。しかし、彼らには余暇も娯楽を楽しむ財産もない。それを埋めるものは音楽しかないのだ。彼らは音楽を歌い、踊った。彼らの頭の中にはアフリカの記憶が残っていた。音楽だけが彼らの慰みだった。

2.奴隷音楽の発生/03.奴隷の分布

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 奴隷は1451~1870年の4世紀に亘り、合計960万人輸入された。ただし、これには中間航路の死者は含まれない。

 この内、最も多く輸入されたのはブラジル北東部で38%だ。ブラジルは一番最初に奴隷を輸入し、そして最後まで輸入された地である。

 次に多いのが英領カリブ・仏領カリブとスペイン領アメリカで、どれも16~17%だ。あの広大なスペイン領(カリフォルニア~チリ)の奴隷と、カリブ海諸島が同数値なのは、カリブの大農園(プランテーション)の凄まじさがわかる。

 意外なのは英領北米で、全体の5%しかない。しかし、これは奴隷の人口数ではなく、輸入量である。一人の奴隷を温存するか、死ぬまで酷使して使い捨てる、つまり消費するかで、奴隷の輸入量にも変化が出てくる。単に多くの輸入した場所には多くの奴隷がいる訳ではない。つまり、輸入数は植民地の奴隷政策と関係しているということだ。

 尚、スペイン領アメリカは、黒人奴隷の他に先住民労働者も多く(彼らは高度な文明を築いていたので、他地域の先住民よりも利用価値が高い)、支配層スペイン人と先住民と黒人は混血し、それでも階層は残り、複雑な多民族階層社会が形成された。これは世界でもユニークな例である。

2.奴隷音楽の発生/02.奴隷の扱い

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 奴隷は捕虜だけでなく、黒人・白人による恐ろしい奴隷狩りの犠牲者もいる。日常生活を送っていた者が1日にして、商品にされてしまうのだ。彼らは頭を剃られ、鎖につながれ、ブランドの焼印を押され、船に詰め込まれ、大西洋の先まで運ばれる。この時点で彼らは生活も財産も家族も全て失い、0から始めなければならない。

 奴隷は船の底に押し込まれすし詰めにされる。船内は汚物と臭気に溢れ、多くの死者や病人が出る。それらは生死と無関係に海に投げ捨てられ、サメの餌となる。

 市場に着くと、奴隷は並べられ、顧客に品定めを受ける。目を裏返されたり、身体を触られたり、ときには全裸にされたりする。こうした品定めにより、使えそうな者ほど高く売られた。奴隷は一人当たり500~1800ドルで売られたが、一度売られると彼の扱いは主人の自由で、殺しても、他人に売っても構わなかった。大抵の奴隷は、食事が与えられるだけで、時間的にも経済的にも自由は全くなかった。

2.奴隷音楽の発生/01.奴隷制を支える思想

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 奴隷制を行なう上で、欧州人はある思想を発明し、定着させた。「野蛮」の発明だ。欧州人は「黒人は野蛮である。人間ではなく、猿と一緒だ。文明を持たぬ異教徒だ」と繰り返し欧州内に宣伝し、哲学者や科学者が飾りをつけ、アフリカ=野蛮を常識として定着させた。人種差別主義が奴隷貿易正当化のために造らせたのだ。17世紀~18世紀の運動だ。

 こうして罪意識なく、奴隷は売り買いされた。彼らは人間ではない。商品なのだ。アフリカは1千万の労働力を失い、欧州の商品に頼って、自力の産業開発がストップした。

1.奴隷貿易/06.カリブ・北米への進出

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 こうして大西洋奴隷貿易はオランダが握り、イギリス・フランスの新興国が、スペイン領カリブ海や北米大陸に侵入した。スペインはカリブ海を守ろうと激しく戦ったが、英人・仏人の「カリブの海賊(バカニア)」を味方につけた新興国についに敗れ、1670年にはジャマイカなどカリブ海の領有を認めた。この間、52~78年には英蘭戦争が起こり、オランダの力は衰えた。ブラジルは1624年以降、それまで廃れていたカリブ諸島は新興国によって徐々に砂糖プランテーションが開き、黒人奴隷が流入して行った。貿易は英が独占した。

 北米では、スペインがメキシコから黄金郷(エルドラド)を求め、北上していた。17世紀前半から、カナダのハドソン湾からは仏が、東海岸北部にはオランダが(ニューアムステルダム)、東海岸中・南部には英国が植民化した。英は1664年オランダ領も手に入れ、仏はミシシッピー川を下り、アメリカ中部に広大な領土を得た(ルイジアナ)。

 仏と英は違う性質の植民地だった。仏はインディアンの上に君臨し、毛皮の交易を目的とした、間接統治を行なった。英は大人数の国民が夢と自由を求めて植民し、現地からインディアンを排除し、直接自治を行なった。英の人口は増加していて、北米進出はアイルランド植民の延長だった。

 北米東海岸の北部は寒く、欧州に似た風土で、大農園(プランテーション)は作れなかった。住民は都市を造り、欧州世界を再現しようとした。これに対し、南部は温暖だったので、南部の民はブラジル・カリブ海のような大農園(プランテーション)を展開した。こうして1619年、最初の黒人奴隷が北米に入ってきた。第1回植民地会議の年である。

1.奴隷貿易/05.欧州の勢力争い

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 欧州では様々な勢力争いが起きていた。1517年ドイツで起きた宗教改革は宗教戦争を招く。この新教(プロテスタント)は弾圧されつつも、北欧~スイス・ドイツ~イギリスに伝わる。これに対し、1545年スペインでは反宗教改革が起き、ロヨラやザビエルのイエズス会が南欧と世界に旧教(カトリック)を広めた。両者は1555年和議を行ない宗教併存の時代となる。その後、各地で絶対王政がしかれ、重商主義を始める。

 スペインは71年オスマン海軍を破り、80年にポルトガルを併合、無敵艦隊と広大な植民地を持つ巨大帝国になるが、同じ頃スペイン領であるオランダの新教徒(プロテスタント)は激しい独立運動を展開。英はこれを援助し、88年英は無敵艦隊を破った。スペインの力は衰え、オランダは独立した。

 オランダはポルトガル領を次々と奪取し、東南アジア~インド~アフリカ~ブラジルの広大な領土を握り、貿易を独占した。

1.奴隷貿易/04.世界システム誕生

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 大西洋奴隷貿易が始まることは、世界システムの誕生を意味した。世界システムは資本主義の自由労働が世界に拡大し、周辺地の強制労働の上に成り立つ世界的規模の分業体制である。「中核」部の利益・目的の自由のためには、「周辺」部の不自由が伴なわれなければならなかった。

 大西洋を舞台に3大陸に渡り展開された「3角貿易」もその典型の一つだった。欧州の商品や武器が西アフリカにもたらされ、黒人は奴隷を売り、その奴隷はブラジル北東部で酷使され、作られた砂糖は欧州に運ばれた。この仲介に立つ商人は莫大な利益を得た。このシステムに気付き、利益を得ていたのは当初ポルトガルだけだった。ポルトガルは砂糖貿易も奴隷貿易も独占し、大海運帝国となった。その利益は全て国王のものだった。

 アフリカの王達はもちろんこのシステムに気付かず、鉄砲欲しさに戦争して、得た捕虜を売って買った鉄砲をまた戦争に使うという繰り返しだった。奴隷の需要が高まると人さらいや奴隷狩りが横行した。それらは白人商人ばかりでなく黒人もいた。

 しかし、徐々に欧州人の奴隷への残酷な扱いに気付いた国王もおり、奴隷貿易に反対したり禁止する王も現われた。

 欧州も最初はイベリア半島からもたらされる産物をただ歓迎しただけだったが、次第にこの世界システムの存在に気付き、乗り出してくる新興国が現れた。欧州北部の英・仏・蘭である。

1.奴隷貿易/03.奴隷貿易の変質

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 砂糖は香辛料と同じく欧州人を魅了した。ポルトガルはより多くその需要に答えるためにサトウキビの自力生産を始めた。それは最初西アフリカ沿岸のマディラ諸島、カボヴェルデ諸島、カントメ島などで作られ、それはたちまち市場から高額な地中海経由の砂糖を追い出した。砂糖は奴隷に作らせていた。

 このやり方は儲かる、と確信したポルトガルはこれをもっと大規模に行なおうと考えた。そこでブラジルが登場する。当時、争っていたイベリア2国に教皇はブラジルを境に線を引き、その西をスペイン、東をポルトガルの努力圏とした(1494年)。ポルトガルはインド洋航路確保と東方貿易に燃え、スペインはそれに代わる利益を何が何でも得ようと新大陸を荒らし周った。両国が地球の裏側でもう一度ぶつかるのは、わずか35年後だった。東の境界線は日本を中国・四国地方でパックリ割られた(1529年)世界がこの2国に教皇の手で与えられたのだ。

 さて、東方交易を主眼に置いてたポルトガルにとってブラジルは森林と焼畑農耕民族トゥピ人がいるだけの未開拓地帯で、都市建設も、トゥピ人の労働利用も難しく、生い茂るブラジル木を伐採して売るくらいの価値しかなかった。しかしその内、伐採したあと出てくる土壌が熱帯産のサトウキビ栽培に適していることが判ると、この地が重要な土地となってくる。

 ブラジルは大西洋を挟んでアフリカ西海岸の奴隷供給地の最短距離にある。奴隷船は大西洋を行き来して、黒人を遠くアメリカ大陸まで運ばれた。1570年代ブラジル北東部に大砂糖プランテーションが作られてから、1850年の奴隷禁止までにこの地に360万人もの奴隷が運ばれた。

1.奴隷貿易/02.欧州人との出会い

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 欧州人の狙いは東方貿易だった。ポルトガルのアフリカ周り航路も、スペインの西回り(偶然アメリカを「発見」する)も、全て東方貿易が狙いだった。だから、最初にアフリカにポルトガル人が来たとき(15世紀)も、その関係は友好的だった。沿岸地に基地が作られ、そこを中継地に互いの産物を交換した。内陸部に欧州人が入ってくる(=植民地化)ことは(南アフリカは例外だが)19世紀までなかった。

 欧州人と出会った黒人は、東西で異なる反応をした。すでにイスラム~インド洋交易の発達した東アフリカは、この新たな侵略者をあまり歓迎せず、スワヒリ文化を守り、アラビア半島の強大国オマーンと結び、インド洋航路をめぐってポルトガルと激しく闘った。

 一方、今まで交易の少なかった西アフリカ沿岸は、欧州のもたらす産物、特に鉄砲に魅了された。サハラ交易で栄えたソンガイ王国は滅び、サハラ交易も衰え、物流は内陸ではなく沿岸部に集中した。金・象牙・奴隷などが交易品となった。ポルトガル交易で沿岸のベニン王国はかなり力をつけた。奴隷はサハラやインド洋交易でイスラム商人がすでに扱っていたが、女性が多く農耕や召使い・兵隊などに使われた。ポルトガルとの初期奴隷も家庭内召使いで、リスボンには奴隷市場が出来た。奴隷は主に犯罪者や捕虜だった。

 西アフリカ沿岸にはポルトガルによって、奴隷海岸・黄金海岸・象牙海岸などの産物名がつけられ、互いの対等な交易でにぎわった。

1.奴隷貿易/01.欧州大航海時代

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 欧州の膨張志向はすでに中世から始まっていた。しかし、その時点の彼らは地中海世界を生き、地中海の制覇が世界のそれであった。海=地中海、航海=地中海航海、交易=地中海交易だった。地中海制覇のための十字軍には「聖地回復」が名目とされた。同様のことをイベリア半島の民が「国土回復」と名目していった。しかしその時点でイベリアは地中海の一番はじ、その先には何もない世界だった。

 東方の砂糖・香辛料の産物や知識が広まると、欧州は東方貿易に情熱を燃やした。東方と交易するには東に目を向けるものだが、目の前には欧州世界に迫るオスマン帝国の脅威と、数十倍に値段を切り上げるイスラム~ベネチア商人が立ちはだかった。欧州人は遠回り航路に目を向けた。イベリア半島がにわかに注目された。目の前にはアフリカがあった。

マカイガ03-003-土蜘蛛 ※B

2009年08月30日 CMP2000 | | コメント(0)

03-003-土蜘蛛
二つの面の関連性について、二つの方向性が思いつき、その内の一つに絞ってみた。でもまだ修正がきく範囲だと思う。

<アクション>
1.一筆:中央の面の左上に曲線を追加。
2.一筆:中央の面の下にも曲線を追加。

<業務連絡>
アクションには「一筆」か「一塗り」かを書いてください。

マカイガ03-003-土ぐも

2009年08月30日 土蜘蛛 | | コメント(0)

 BBB

マカテクノ01-012-土蜘蛛 ※B

2009年08月30日 CMP2000 | | コメント(0)





よくある感じで一回り。

01-012のMIDIファイル

マカノベル01-0288-edak

2009年08月26日 edak | | コメント(0)

男性陣は素っ裸で「ウキャキャキャキャー!」と狂ったようにはしゃぎながらオアシスの中をバシャバシャと泳いでいたが、アン子だけはちょっと離れたところで「あいつら絶対バチ当たる!地底の神様から天罰を喰らうぞ!」とちょっと怒りながら、オアシスの水を身体にあてがってコメット米を洗い落としていた。

マカノベル01-0287-土蜘蛛

2009年08月26日 CMP2000 | | コメント(0)

「ふぃ〜〜気持ちい〜、身体中の米粒洗い流そう〜税!」

マカノベル01-0286-edak

2009年08月25日 edak | | コメント(0)

ついさっきまでサダ族の将軍がいたなんてことはつゆ知らず、ハメド達は水を求め、全員が一発ずつコメット弾を喰らうという惨劇を繰り広げながらも、何とかオアシスにたどり着いた。

マカノベル01-0285-土蜘蛛

2009年08月25日 CMP2000 | | コメント(0)

「人間どもぞよか?ここはコメット弾が多すぎて戦うには不利ぞよ、オペオ・ぺオン号、早々に砂漠を抜けようぞ」

マカノベル01-0284-edak

2009年08月25日 edak | | コメント(0)

そんな中、マサコが覚醒して制御できなくなったことがシマサに伝わり、急遽スブ味噌強奪のため、スブ神殿へと駆り出されることとなったマッサー将軍はそのオアシスでくつろいでいたところであったが、コメット弾の爆発によって何者かが近くにいることに気づき、スブ神殿へ急ぐこととした。

マカノベル01-0283-土蜘蛛

2009年08月24日 CMP2000 | | コメント(0)

もう何回目だろうか、「ペッペッ」と吐きながら全身の米粒を払うハメドだが、この米粒は稲にはならないのであり、残念ながら種籾(たねもみ)は火の九日間でほとんど焼けてしまったらしい。

マカノベル01-0282-edak

2009年08月24日 edak | | コメント(0)

サダ族の祖先は元々人間だったため、味噌汁と一緒にご飯を食べていたが、妖怪になってからは味噌汁にこだわりすぎてご飯を受け付けない身体になってしまったのだが、人間はそんなサダ族の特性を利用し、コメット弾を開発した。

マカノベル-01-0281-土蜘蛛

2009年08月23日 土蜘蛛 | | コメント(0)

案の定、コメット爆弾を踏んでしまい、全身にご飯粒を浴びたが、ご飯粒で死ぬのはサダ族だけであり、人間にはなんの影響もない。

音ネタ

2009年08月23日 土蜘蛛 | | コメント(0)

・願う!願う!

つちT

2009年08月23日 土蜘蛛 | | コメント(2)

つちT-表面

つちT-裏面

発掘品です。大学時代、ライブで着るために手作りしました。
このTシャツにデカグラサン、ま緑のパンタロンで、Pファンクとスライを演奏しました。1年の時から同級生に地道にこつこつファンクテープを聴かせ、ついに実現できた。このバンドは練習と同じくらい衣装作りにも時間をかけてたなあ。思い出深いなあ。
こまかく見るとそれまでの人生で培って来たいろんな要素が入っています。(1997年制作)

マカノベル01-0280-edak

2009年08月21日 edak | | コメント(0)

ドッカァァァーーーン!!!

マカノベル01-0279-土蜘蛛

2009年08月21日 CMP2000 | | コメント(0)

うかつにも「水だぁ…!」と駆けだしたのは例のごとくハメドだった。

マカノベル01-0278-edak

2009年08月21日 edak | | コメント(0)

水筒の残りが気になり始めた頃、遠く向こうにオアシスを発見した。

マカノベル01-0277-土蜘蛛

2009年08月21日 CMP2000 | | コメント(0)

砂漠には生物の気配はないようだが、火の九日間のときのコメット爆弾が埋められてるかもしれず、緊張な旅である。

マカノベル01-0276-edak

2009年08月21日 edak | | コメント(0)

□一方その頃、エンジェル隊はサダ族のルーツであるスブ味噌を発掘中のサダ・バスターズ「モグラ隊」を護衛するため、チンチロア国のミソ砂漠の中心にある味噌ヶ丘のSB神殿に向かって、ただひたすら砂漠の中を歩いている。

マカノベル01-0275-土蜘蛛

2009年08月21日 CMP2000 | | コメント(0)

「ムラクチタロ、ショーキンクビ、タイーホ、ムラクチタロ、ショーキンクビ、タイーホ」

マカノベル01-0274-edak

2009年08月20日 edak | | コメント(0)

「さて、天空都市(地球の静止軌道上に存在する都市)にいると聞いているムラクチとかいう賞金首をこのハーロッコ様が仕留めてやろうと思っていたが、これでちと難しくなっちまったな…。」

マカノベル01-0273-土蜘蛛

2009年08月20日 CMP2000 | | コメント(0)

気がつけばサダ族の二匹はいなくなっていたが、何よりも困ったのは写楽星の炎のせいで軌道エレベーターが焼け焦げ、天空に上がれなくなったことだ。

マカノベル01-0272-edak

2009年08月19日 edak | | コメント(0)

勇者全員の力を合わせても写楽星の落下は押さえきれず、最終手段として意思を持っているゲボ鉄道999999が自爆を決意し、発車しようとしているとき、マサムネは何かに気づき、魔法の行使を中断し、写楽星は落下をやめ、元の位置へと戻って行った。

マカノベル01-0271-土蜘蛛

2009年08月19日 CMP2000 | | コメント(0)

これに、ハメテルのまつ毛針、車掌の3つ目光線、ケイサツのケーボーブレード、キヨシの気合いも加わった。

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2009年08月19日 edak | | コメント(0)

いつの間にかフュージョンし終えていた3体は1体のミュータント「ウサイン」となり、弓矢を射るポーズを取り、必殺技「サンダーボルト」で加勢した。

マカノベル01-0269-土蜘蛛

2009年08月19日 CMP2000 | | コメント(0)

それで、すかさず加勢せんと、ケツモウはせ○しの銃を、ケツアナダスはアス砲をブッ放した。

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2009年08月18日 edak | | コメント(0)

ハーロッコの6本の歯の隙間から放たれている5本のハーロッ波は天空に向かって直進し、天空から落下している写楽星(隕石)を打ち砕こうとしているが、流石にこれだけ巨大なモノを打ち砕くのは無理がありそうな状況である。

マカノベル-01-0267-土蜘蛛

2009年08月18日 CMP2000 | | コメント(0)

ハメドに付けられたあだ名を何度も連呼し、どうやら自分でも満更でも無さそうなハーロッコは、その6つの歯の隙間からソリッドな光の衝撃波(以下「ハーロッ波」と言う)を幾多も繰り出し、シャラクセイに対抗した。

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2009年08月18日 edak | | コメント(0)

「ほほぉ〜ぅ、おまえらシャラクセイを操れるのか、そんなことしたら地球がどうなっても知らんぞ、シャラクセイはスブ族しか使えないと思ってたが…、スブ族はこのハーロッコ様が正義のために絶滅させてやったが、まだ根絶できていなかったとは…、このハーロッコ様もまだ詰めが甘かったということか…。」

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2009年08月18日 CMP2000 | | コメント(0)

シャラクセイと聞くとかつてこの星の周りを回っていたと言う第三の月、写楽星の名を思い浮かべる読者もいることと思うが、『この世のどこかにある大隕石;写楽星の巨大クレーターを掘ると、最強不老長寿の味噌スープが埋まっている』と言う旧い書物の伝説は偶然であろうか。

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2009年08月18日 edak | | コメント(0)

マサムネはサダ族の禁呪と言われている魔法「シャラクセイ」を使ってしまったため、この後、最強の名を欲しいままにした勇者達をも脅かす大災害を引き起こしてしまう。

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2009年08月18日 CMP2000 | | コメント(0)

「しゃ〜らくせぇーー〜〜〜〜!!!!!」

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2009年08月18日 edak | | コメント(0)

「俺はキヨシ、こいつはケイサツ、俺達は超強いからあのフュージョンを止めようったって無駄だ、やめておけ。」

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2009年08月18日 CMP2000 | | コメント(0)

「マチナサイ、ココハトオサナイ」

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2009年08月17日 CMP2000 | | コメント(0)

マサムネ・マサヲは刀を持って全速力で突っ走るが、それを阻むようにフュージョン中の3人の前に警察の帽子をかぶり、警棒と拳銃を持った全身真っ白の小人(8人目)と同じくらいの背丈の全身真っ白素っ裸の男(9人目)が現れ、ゲボ鉄道999999の中にいるのはこれで全員のようだ。

マカノベル01-0259-土蜘蛛

2009年08月17日 CMP2000 | | コメント(0)

「……ん?しまった!おいマサヲ、あれ見ろ、あれは、あれはフュージョンじゃないか!?あれだけはやらせるわけにはいかねぇ!」

マカノベル01-0258-edak

2009年08月17日 edak | | コメント(0)

終わったと思いきや、まだ出てきていない勇者がおり、赤いドロドロの人型生物と茶色いドロドロした人型生物と灰色の固形の人型生物が手をつないでクネクネしながら「ボディトゥボディ」という呪文を唱え続け、融合しようとしている。

マカノベル01-0257-土蜘蛛

2009年08月17日 CMP2000 | | コメント(0)

「(クネクネしながら)カラダからカラダ〜へ〜〜♪」

CMP2000のテーマ 他

2009年08月16日 CMP2000 | | コメント(0)

・来年の10周年に向け、CMPのテーマソングみたいのを作りたい。摩訶兄弟の合作で、できたら例の感じの声なども入った作品を作りたい。今日、車の中でアイデアを出し合った。
PVやジャケットも作りたい。

・大学時代に作った手作りTシャツが出てきたので、撮影して土展にアップする。

マカノベル01-0256-edak

2009年08月15日 edak | | コメント(0)

数時間後、9人の勇者達とケツアナダスの自己紹介トークしながらのミニドラマがようやく終わった。

マカノベル01-0255-土蜘蛛

2009年08月15日 CMP2000 | | コメント(0)

そうなって来ると二人とも心の中ではもうすっかり爆破スイッチを押したくなくなっていて、むしろ早くあいつらいなくなってくれたら心おきなくスイッチを押せるのにと願いつつ様子を見守るが、彼らは一向に自己紹介トークを終えそうにないので、一旦中止したいなぁ何て思いつつ、互いに相手に本音を悟られまいと努力しながら相手の気持ちを探っているので、どちらも探れるはずもなく、ただただ時間だけが過ぎて行き、だんだんイライラして来たが、大きな目的を果たさぬと親父にブチ殺されるのも避けられぬ事実なのだ。

マカノベル01-0254-edak

2009年08月14日 edak | | コメント(0)

そう言うマサムネの部下マサヲも心の中でハメテルのことが気になっており、自分の任務を全うするために自分の気持ちを押し殺していた。

マカノベル01-0253-土蜘蛛

2009年08月14日 CMP2000 | | コメント(0)

マサムネは何も言わない……ボーーッとした表情で送る視線の先を辿ると、どうやらぷぃ〜んケツアナダスに見とれているようだった。

マカノベル01-0252-edak

2009年08月14日 edak | | コメント(0)

「マサムネ様、あいつら何やら自己紹介的な雰囲気になってまだまだ時間がかかりそうですが、やっぱりあいつらがどっか行くのを待ってからステイシヨンを爆破した方がいいですか?」

マカノベル01-0251-土蜘蛛

2009年08月13日 CMP2000 | | コメント(0)

止めに入ったはゲボ鉄道999999の車掌で、黒い顔に黄色い目が三つ光っている謎の生物だ。

マカノベル01-0250-edak

2009年08月13日 edak | | コメント(0)

「よせ、ケツモウ!」

マカノベル01-0249-土蜘蛛

2009年08月13日 CMP2000 | | コメント(0)

「くっさ!寄るなーーー!!!(「言うなー」の言い方で殴りかかりながら)」

マカノベル01-0248-edak

2009年08月13日 edak | | コメント(0)

「あたしの恋人、永遠の恋人オナローに会ったことがあるのか、会ったことがないのか、と聞いている(怒)!」

マカノベル01-0247-土蜘蛛

2009年08月13日 CMP2000 | | コメント(0)

ハメテルは何も言わない…。

マカノベル01-0246-edak

2009年08月13日 edak | | コメント(0)

「うん、わかんだぁ〜い!」

マカノベル01-0245-土蜘蛛

2009年08月13日 CMP2000 | | コメント(0)

「せ○しの銃?その銃はあたしの恋人、永遠の恋人オナローが持っていた銃、ケツモウ、あなたオナローに、あたしの恋人、永遠の恋人オナローにあったのかい?」

マカノベル01-0244-edak

2009年08月13日 edak | | コメント(0)

それが宇宙だ…。

マカノベル01-0243-土蜘蛛

2009年08月13日 CMP2000 | | コメント(0)

ケツアナダスと旧知の間柄らしいこの女性もまた長身モデル体型でブロンド超長髪(身長より長い)、まつ毛も長く50センチ以上、オールシーズン全身黒ずくめの毛皮ファッション、その隣のケツモウ少年はチビだが顔立ちは映画版(かっこいい方)なのが唯一の救い、ハメテルは何も言わない…。

マカノベル01-0242-edak

2009年08月12日 edak | | コメント(0)

「僕の名前はケツモウ、完全な身体を手に入れるためにハメテルと一緒に旅してるんだ、悪い奴はこのせ○しの銃でやっつけるんだ、This is a…。」

マカノベル01-0241(お匂い)-土蜘蛛

2009年08月12日 CMP2000 | | コメント(2)

「それから貴方もこの列車に乗ってたのねぇハメテル、その少年は?」

マカノベル01-0240-edak

2009年08月12日 edak | | コメント(2)

ちなみにクイーン・ケツアナダスの「クイーン」を「ぷぃ〜ん」にしたのもハメドの仕業であり、ケツアナダスが「ぷぃ〜ん」なのはケツアナダスと会ったことのある者であれば皆が心の中で「上手い!」と叫んで納得することであったが(ハーロッコも本当は臭いからなるべく会いたくない)、ケツアナダス本人も何だかんだ受け入れて自分からそう名乗っているところを見ると(あまりにも皆から(部下からも)「ぷぃ〜ん」と言われすぎて否定し続けるのに疲れてしまったというのもあるが)どうやら自覚はあるようで、そんなに臭い奴が臭い宇宙船に乗ってやってきたにも関わらず、変なゲボみたいな列車にばかりに気を取られて背後からぷぃ〜ん・ケツアナダスが接近していたことに気づかないサダ族は嗅覚の性能が著しく低いが、それはぷぃ〜ん・ケツアナダスにとって唯一と言っていいほど相性の良い相手とも言える。

マカノベル01-0239-土蜘蛛

2009年08月12日 CMP2000 | | コメント(0)

ハーロッコと同様に片目で、彼とは旧知の間柄らしいこの女は、身体からプイ〜ンと妙な体臭を放っている以外は、スラッとした長身のモデル体型で、文句のつけどころがない美人なのだが、この体臭を嗅いで思わず「くさっ」ともらすのはもちろん、ほんの少しでも表情を変えるだけでも敏感にリアクションを感じとり、それが例えどんな相手であろうも必ず抹殺してしまうのがたまに傷である。

マカノベル01-0238-edak

2009年08月11日 edak | | コメント(0)

「私の名前はぷぃ〜ん・ケツアナダス、尊敬する両親がくれた素敵な名前、私の宝物、キャプテン・ハーロッコ、あなたを迎えにきた、私の名前はぷぃ〜ん・ケツアナダス…。」

マカノベル01-0237-土蜘蛛

2009年08月11日 CMP2000 | | コメント(0)

「迎えに来てくれたのか、久しぶりだなケツアナダス、プイーン・ケツアナダス」

マカノベル01-0236-edak

2009年08月10日 edak | | コメント(0)

変な列車は着陸し、中からは変な奴が9人出てきた。

マカノベル01-0235(お兄さんGO)-土蜘蛛

2009年08月10日 CMP2000 | | コメント(0)

「ばかもん、今我らの姿が人間に見られたら計画が水の泡だろ、姿を隠しながら奴等がどんな目的でやって来たのか盗み聞きするんだ」

マカノベル01-0234-edak

2009年08月09日 edak | | コメント(3)

「マサムネ様、あの変な列車みたいな奴の中から変な奴が出てきたら…、『本当に変な奴か、聞いてみる』、『問答無用で襲いかかる』、どうしますか?」

マカノベル01-0233-土蜘蛛

2009年08月09日 CMP2000 | | コメント(0)

「変な奴?……俺の片目にはよく見えんぞ、それよりももうすぐ着陸だぞ」

マカノベル01-0232-edak

2009年08月08日 edak | | コメント(0)

そんなあだ名つけテロリスト「ハメド」の被害者である9人の勇者は「勇者」という曖昧な職業ながら義務感で世直しをしているが、旅のもう一つの目的としてハメドへの仕返しを狙っている。

マカノベル01-0231-土蜘蛛

2009年08月06日 CMP2000 | | コメント(0)

ハメドはパンジャ国、村口は北セムペ共和国の出身で、彼らは大ウイウイウ民国でエンジェル隊を結成するが、元々北セムペとウイウイウは同じ民族であり、しかもパンジャはかつてセムペ半島を植民していた歴史的背景もあり嫌われているのだが、それでもハメドが孤立しなかったのは持ち前のお調子の良さであり、村口もドン引きし、心を閉ざすほどの押しの強さのためである。

更新通知のお知らせ

2009年08月04日 土蜘蛛 | | コメント(0)

以前、CMPMLを始めるかもしれません、と書きましたが、既存のサービスで自動的に更新通知をメールしてくれる物がありました。MAILPIAというサービスです。

MAILPIA
※本Webサイト(CMP2000)の更新をメールでお知らせします。

マカノベル01-0230-edak

2009年08月04日 edak | | コメント(6)

読者の皆さんは既にお気づきかもしれないが、ハーロッコという名前は歯が六個だからハーロッコなのであり、そのネーミングセンスは正にあだ名つけ名人として有名なあのハメドによるものである。

マカノベル01-0229-土蜘蛛

2009年08月04日 CMP2000 | | コメント(0)

全身を革で身を包み、眼帯に片手片足が義手義足のこの男はかつて宇宙海賊と恐れられ、その歯の数からハーロッコと呼ばれていた。

マカノベル01-0228-edak

2009年08月04日 edak | | コメント(2)

「おい、ハーロッコ、ステーションの周りに変なやつらがいるぞ。」

マカノベル01-0227-土蜘蛛

2009年08月04日 CMP2000 | | コメント(0)

彼等はステイションに着いたらそこからエレベーターに乗り換えて、天空へ上がるはずの9人であった。

マカノベル01-0226-edak

2009年08月03日 edak | | コメント(0)

トレインにはパンジャ国の9人の勇者が乗っている。

マカマンガ01-191-edak ※A

2009年08月02日 CMP2000 | | コメント(0)

マカマンガ01-191-edak
ちょっと場面切替...。

コメント機能開始

2009年08月01日 edak | | コメント(0)

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マカノベル01-0225-土蜘蛛

2009年08月01日 CMP2000 | | コメント(1)

それは、茶色い粘性のゲボが連なったようなトレインだった。

マカノベル01-0224-edak

2009年08月01日 edak | | コメント(3)

「マサムネ様、東方より何やら怪しい飛行物体がこちらに向かってやって来ます!」

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